ミッドナイトアートシアターで、「サラマンダー」を観る。
予備知識なし、期待なしで、ほぼ偶然に近い感じで観たんですが、ちょっと想像と違ってたのがいい意味で裏切られて、という作品。
舞台は、近未来、ですね。
いわゆる“ドラゴン”が地上を支配していて、という、まぁ、「マッドマックス」とかに実は近い世界観だったりするんですが、要するに、「剣と魔法の~」というファンタジー系のアレではない、と。
「サラマンダー」は、その“ドラゴン”を指したタイトルなワケですが、俺はてっきり、そっちのファンタジー系の作品かと思ってたら、どうやらそうじゃない、と。
近未来。
で。
その世界観の設定は面白いと思ったんですが、例えば、主人公が“剣”とか振るってくれたらよかったのにな、と。
実際は、ライフルとか、もっぱらそういう武器しか登場してこないんで。
「剣とライフル」なら、これは、「ファイナルファンタジー」じゃないですけど、もっともっと面白くなったのになぁ、と。
この「もっと面白くなったのに」っていうのが、実は作品全体に対する感想だったりして。
まず挙げられるのが、この、“剣”について。
せっかく主人公が馬とか乗ってるんだから、と。
デカい斧は武器として登場してくるんで、ここで“剣”が出てくれば、かなりカッコよくなって、観てる側のテンションももっと上がったんじゃないかなぁ、と。
もう一つが、ドラゴンの造形。
当然CGで作られたドラゴンが動くワケですけど、このドラゴンの“顔”がイマイチ。
どうもねー。
これって、“この手”の作品に結構ありがち、というか、西洋の人が思う“禍々しさ”ってこういう顔なんだな、ということを思わせる、というか。
爬虫類に似せて造形しないんですよねぇ。なぜか。
“人”に似せて作っちゃう。
もっとクールなドラゴンの造形にすれば良かったのになぁ、と。
いわゆる“ラスボス”ってのがいて、要するに、そいつを倒して終わり、なワケですけど、そのラスボスの造型がイマイチ、と。
あと、そのラスボスとの戦闘が、あまり盛り上がらない。
これは完全にシナリオ面での失敗なんだけど、「最初の作戦どおりに倒す」という流れで、ここも実は最初の「剣があれば!」というのにつながるんだけど、要するに、戦闘のシークエンスで盛り上がるワケですよ。
剣を構えれば。
そこがね!
惜しい!
ホントに惜しい。
舞台は、「近未来のロンドン」で、主人公はイギリス人。
で、アメリカ人の軍人、という脇役が出てきて、彼らは戦車とか戦闘ヘリとかを持ってる。
だけど、そういう現代兵器が、ドラゴン(サラマンダー)の口から吐く火焔に全部やられちゃって、というストーリーの流れなんですけど、そこまで“フリ”を溜めておきながら、最後も“火薬”に頼っちゃう、という、ね。
剣でしょ!
斧でもいいけど!
肉弾戦じゃないの!
そんな、斜に構えてカッコつけるような作品じゃないじゃん!
と、思いました。
登場人物たちのキャラ立ちとか、すごい上手で、最初は悪漢って感じのアメリカ人軍人の“謝り方”も凄いイイ感じで、そういうトコは上手なクセに、大事な「いかにテンションを挙げるか」ってトコで、どうも詰めが甘い、というか。
なんか、「新しいトコ狙いすぎ」?
そうじゃねーだろ、と。
ラストは、“刃物”でラスボスの首をぶった切って終わるんだよ。
そういうモンでしょうが、と。
なんか、CGもそうなんですが、セットとかすげーカネかかってるんですよねぇ。
最初の、人間たちが隠れ住んでいる砦のセットとか、もの凄い凝ってて雰囲気あったりして。
戦車もヘリも出てくるし。
あと、荒廃したロンドンの光景、とか、結構クールで。
ところがねー。
その、“肉体”の部分っていうか。
肉感的な部分の演出でイージーミス!
チョイスミス!
う~ん。
惜しい!
と、そういう作品でした。
あとねー。
最後の「フランス語」云々ってトコもな~。
アイスランド語とかロシア語にして欲しかったな。
せめてドイツ語。
フランスなんて、目と鼻の先だもんね。
そういうトコがね。
なんか、「カッコつけ過ぎ」って感じなんだよねー。
というワケで、非常に「惜しい!」作品でした。
でわ。
2010年12月18日土曜日
2010年12月14日火曜日
「クロッシング」を観た
新宿武蔵野館で、“隠れた”オールスターキャスト作品の、「クロッシング」を観た。
実は、この「クロッシング」は邦題で、原題は「ブルックリンズ・ファイネスト」。
この原題の言葉は、まぁ、慣用句というか、このまんまのタイトルのヒップホップのヒット曲があったりして、ざっくり意訳しちゃうと「ブルックリンで一番ヤバいヤツ」みたいな感じ。
で、この邦題は、やっぱ失敗ですよねぇ。
「交錯する」みたいな意味合いで「クロッシング」ってことだと思うんですけど、それならいっそ「クロス」とかにしておけば、「キリスト教」云々の部分も意味付けできなのにな、なんて。
だいたい、「交錯」しないんだよねぇ。
そこが「売り」じゃないのに、という、ね。
というワケで、いきなり原題にケチつけちゃいましたが、なんか、作品全体がなんかそんな感じ。
なんか「イマイチ」感がね、という。
いい作品なんだけど、と。なんか詰めが甘い感じ。
まず、リチャード・ギアがそれっぽく見えない。
仕事にくたびれた、そしてやる気がまったくない定年退職直前の制服警官を演じてるんですが、これがぜんぜんそう見えないんだよな〜。ぜんぜんくたびれてる感じに見えない。
「定年の退官を目前にした警官」というのは、この手のサスペンス/クライム・アクション系の作品には、かなり頻出するキャラクターなんですけど、まぁ、たとえば「セブン」のモーガン・フリーマンがそうなワケで。
(あちらは私服刑事で、こちらはパトロール警官、という違いはありますけど)
とりあえずそこの感じがねー。
オールスターでやるのはいいんだけど、と。
この違和感は、最後までわりと強かったりして。
イーサン・ホークは、信仰心(カトリック)からくる罪の意識と苦悩と自責に次第に追い込まれていく刑事を、かなり熱演してて、これはホントに「どうしようもない苦しみ」がビシビシ伝わってくる感じで。
話がそれますけど、そもそもキリスト教(特に、カトリック)は、「原罪」をまず人に背負わせておいて、という形で「信仰」に縛り付ける、みたいな構造で出来てるワケで(いや、あくまで俺の解釈では、ということです。念のため)、この「呵責の気持ち」の駆動力は、そうとういいです。
まぁ、イーサン・ホークが担うプロット部分は、全部いいです。ディテールも含めて。
特に子供たちとのやりとりは、セリフとか最高。
で。
もう一人の主人公が、名手、ドン・チードル。
この作品では、ちょっと珍しく、タフな役柄を演じてるんですが、その、「ちょっと珍しく」の部分がとても効果的な、素晴らしいキャスティングで、「タフなギャングを装って潜入捜査をしている刑事」の「表の顔」でも「裏の顔」でも、まぁ、完璧な感じ。
あいかわらず素晴らしいですね。
さすが、俺たちのチードル。裏切りません。
ちなみに、ドン・チードルの相方役が、ウェズリー・スナイプス。このキャスティングは、ちょっとわざとらしい感じがしますが(あんまり新鮮味がない、というか、ね)、まぁ、こちらも相変わらずの存在感でした。
それから、リチャード・ギア。
こちらは、くたびれた制服警官で、こちらのプロットは、「惰性」とか「人生と生活」(どちらも、ライフ)に膿み疲れた「惰性」を駆動力にストーリーがドライブしていく。
まぁ、シナリオとかホントに素晴らしいと思うんですよねぇ。
くたびれた制服警官の、犯罪現場(拉致誘拐・人身売買)への伏線の張り方とか、見事だと思うし。
ドン・チードルの、「裏の顔」の苦悩が徐々にギャングとしての「表の顔」に表出してくる感じとか、捜査機関同士の対立とか内部のいざこざとかも、限られた条件でも(というか、会話のせりふだけで)きちんと描けてたりして、ホントに巧いと思うし。
ただ、その、複数のラインで進んでいくそれぞれのストーリーを、そもそも複数のラインで語る必要があるのか、と。
そこが弱い。
もっと絡み合えばいいのになぁ、と。
直接的に登場人物同士が関係し合う、というだけじゃなくって、ストーリー構造の要素同士が反響し合う、という形でもいいと思うんですけど。(でも、そっちの方が難しいのか・・・)
とにかく、そこが、と。
三人の男が、善意と悪意と自己愛と、そして、大きな社会の仕組みに、だんだんと押し潰されていく。
そこのストーリーの運びは最高なんだけど、と。
三つのストーリーラインが互いに響き合っていない、というトコと、リチャード・ギアがなんだか浮いちゃっているトコ。この二つ。
ストーリーは面白いんだけどね。練ってあるし。
ただ、どうせ練るなら、あと、せっかくオールスターキャストで撮るなら、と。
スター同士のぶつかり合いだってみたいワケですから。
と、シナリオ面では、そんな感じ。
映像は、ストーリーの重い空気感に合った、しっかりとしたタッチ。
この、映像の空気感とストーリーの重さが一致している、というのは、この監督のひとつのウリなんだと思います。
個人的には、こういう雰囲気の画は大好きなので、ポイント高いです。
ちょっと、編集の間が独特で、たまに「え?」みたいな瞬間があるんですけど、まぁ、あまり大事なポイントではないっスね。
舞台となるブルックリンの雰囲気を殺さない画はホントに上手で、特に、黒塗りの高級車を撮るショットなんかは最高にクール。
あと、プロジェクト(団地)の空撮のショットも最高でした。
だからねー。
惜しむらくは、と。
だから、よくよく考えると、もうほぼ完璧な作品なワケですよねぇ。
だけど、と。
なんかちょっとだけ詰めが甘くて、そのちょっとしたポイントのせいでなんか印象がぼんやりしちゃう、という。
もったいない!
と。
なんか、個人的にもの凄い期待値が高かった分、消化不良を抱えながら映画館を出た、という作品でした。
でわ。
実は、この「クロッシング」は邦題で、原題は「ブルックリンズ・ファイネスト」。
この原題の言葉は、まぁ、慣用句というか、このまんまのタイトルのヒップホップのヒット曲があったりして、ざっくり意訳しちゃうと「ブルックリンで一番ヤバいヤツ」みたいな感じ。
で、この邦題は、やっぱ失敗ですよねぇ。
「交錯する」みたいな意味合いで「クロッシング」ってことだと思うんですけど、それならいっそ「クロス」とかにしておけば、「キリスト教」云々の部分も意味付けできなのにな、なんて。
だいたい、「交錯」しないんだよねぇ。
そこが「売り」じゃないのに、という、ね。
というワケで、いきなり原題にケチつけちゃいましたが、なんか、作品全体がなんかそんな感じ。
なんか「イマイチ」感がね、という。
いい作品なんだけど、と。なんか詰めが甘い感じ。
まず、リチャード・ギアがそれっぽく見えない。
仕事にくたびれた、そしてやる気がまったくない定年退職直前の制服警官を演じてるんですが、これがぜんぜんそう見えないんだよな〜。ぜんぜんくたびれてる感じに見えない。
「定年の退官を目前にした警官」というのは、この手のサスペンス/クライム・アクション系の作品には、かなり頻出するキャラクターなんですけど、まぁ、たとえば「セブン」のモーガン・フリーマンがそうなワケで。
(あちらは私服刑事で、こちらはパトロール警官、という違いはありますけど)
とりあえずそこの感じがねー。
オールスターでやるのはいいんだけど、と。
この違和感は、最後までわりと強かったりして。
イーサン・ホークは、信仰心(カトリック)からくる罪の意識と苦悩と自責に次第に追い込まれていく刑事を、かなり熱演してて、これはホントに「どうしようもない苦しみ」がビシビシ伝わってくる感じで。
話がそれますけど、そもそもキリスト教(特に、カトリック)は、「原罪」をまず人に背負わせておいて、という形で「信仰」に縛り付ける、みたいな構造で出来てるワケで(いや、あくまで俺の解釈では、ということです。念のため)、この「呵責の気持ち」の駆動力は、そうとういいです。
まぁ、イーサン・ホークが担うプロット部分は、全部いいです。ディテールも含めて。
特に子供たちとのやりとりは、セリフとか最高。
で。
もう一人の主人公が、名手、ドン・チードル。
この作品では、ちょっと珍しく、タフな役柄を演じてるんですが、その、「ちょっと珍しく」の部分がとても効果的な、素晴らしいキャスティングで、「タフなギャングを装って潜入捜査をしている刑事」の「表の顔」でも「裏の顔」でも、まぁ、完璧な感じ。
あいかわらず素晴らしいですね。
さすが、俺たちのチードル。裏切りません。
ちなみに、ドン・チードルの相方役が、ウェズリー・スナイプス。このキャスティングは、ちょっとわざとらしい感じがしますが(あんまり新鮮味がない、というか、ね)、まぁ、こちらも相変わらずの存在感でした。
それから、リチャード・ギア。
こちらは、くたびれた制服警官で、こちらのプロットは、「惰性」とか「人生と生活」(どちらも、ライフ)に膿み疲れた「惰性」を駆動力にストーリーがドライブしていく。
まぁ、シナリオとかホントに素晴らしいと思うんですよねぇ。
くたびれた制服警官の、犯罪現場(拉致誘拐・人身売買)への伏線の張り方とか、見事だと思うし。
ドン・チードルの、「裏の顔」の苦悩が徐々にギャングとしての「表の顔」に表出してくる感じとか、捜査機関同士の対立とか内部のいざこざとかも、限られた条件でも(というか、会話のせりふだけで)きちんと描けてたりして、ホントに巧いと思うし。
ただ、その、複数のラインで進んでいくそれぞれのストーリーを、そもそも複数のラインで語る必要があるのか、と。
そこが弱い。
もっと絡み合えばいいのになぁ、と。
直接的に登場人物同士が関係し合う、というだけじゃなくって、ストーリー構造の要素同士が反響し合う、という形でもいいと思うんですけど。(でも、そっちの方が難しいのか・・・)
とにかく、そこが、と。
三人の男が、善意と悪意と自己愛と、そして、大きな社会の仕組みに、だんだんと押し潰されていく。
そこのストーリーの運びは最高なんだけど、と。
三つのストーリーラインが互いに響き合っていない、というトコと、リチャード・ギアがなんだか浮いちゃっているトコ。この二つ。
ストーリーは面白いんだけどね。練ってあるし。
ただ、どうせ練るなら、あと、せっかくオールスターキャストで撮るなら、と。
スター同士のぶつかり合いだってみたいワケですから。
と、シナリオ面では、そんな感じ。
映像は、ストーリーの重い空気感に合った、しっかりとしたタッチ。
この、映像の空気感とストーリーの重さが一致している、というのは、この監督のひとつのウリなんだと思います。
個人的には、こういう雰囲気の画は大好きなので、ポイント高いです。
ちょっと、編集の間が独特で、たまに「え?」みたいな瞬間があるんですけど、まぁ、あまり大事なポイントではないっスね。
舞台となるブルックリンの雰囲気を殺さない画はホントに上手で、特に、黒塗りの高級車を撮るショットなんかは最高にクール。
あと、プロジェクト(団地)の空撮のショットも最高でした。
だからねー。
惜しむらくは、と。
だから、よくよく考えると、もうほぼ完璧な作品なワケですよねぇ。
だけど、と。
なんかちょっとだけ詰めが甘くて、そのちょっとしたポイントのせいでなんか印象がぼんやりしちゃう、という。
もったいない!
と。
なんか、個人的にもの凄い期待値が高かった分、消化不良を抱えながら映画館を出た、という作品でした。
でわ。
2010年8月22日日曜日
「型の反復」と「固有性」
雑誌に掲載されていた、大塚英志さんと宮台真司さんという、奇しくも「同学年」の2人の対談記事が強烈に刺激的だったので、ここにアーカイブしておきます。
「型の反復」と、各個人が持つ「固有性」とが、互いに相反するものではなく、必然的に互いに導き合って「作品」という形として浮上してくる、という話です。
大塚
宮台
大塚
宮台
大塚
宮台
大塚
「物語の構造」をキーワードにした、非常に刺激的な話だと思います。
特に、宮台さんの「成長物語」はこうあるべきだ、という言葉。
単純に“作劇のヒント”にしてはいけない、「甘く危険な言葉」ではありますが、知っておかなければいけない認識でもあるでしょうし。
という感じで。
でわ。
「型の反復」と、各個人が持つ「固有性」とが、互いに相反するものではなく、必然的に互いに導き合って「作品」という形として浮上してくる、という話です。
大塚
ストーリーをつくるための文法を(だいたい5、6歳くらいの)子供たちに教えたらどうなるのか。
子供相手に「物語の文法」という観念論を教えるわけにもいかないし、物語の構造しかない絵本をつくるのが手っとり早いだろうと考えました。
でも、これはもう少し年齢の上の人向きかなという気もして、この絵本を親子のワークショップだけでなく、高校生、大学生など対象を変えていろいろな所でやってみたんですが、すると、ストーリーづくりのリハビリみたいなものとは違う意味があるって思えてきた。
(宮台さんにみてもらった)授業は、生徒がそれぞれ描いたこの絵本を発表するという授業でした。
そこで見ていただいたように、ちょっと不思議なことが起きます。
同じ物語の構造に落とし込んでいるはずなのに、描いた人の心の内側みたいなものがうっすらと見える。案外、固有のお話、それぞれの物語が出てくる。
しかも一方では、いくつかのパターンが出てくる。物語論的に正しいパターンがいくつも自然に出てくる。
型に入れたのに一つ一つは固有性があって、でも全体として見ると型というか、パターンがある。それが非常に興味深い。それが面白くて、ひたすら作例を取りながらあちこちで授業をやっています。
宮台
「<世界>を体験しているつもりで、実は<世界体験>の型の反復に過ぎない、その型とは・・・」ということの方が重要な気づきです。それに気づくだけで日常生活の送り方が変わります。
かけがえのない人生。自分のかけがえのない実存。それはそれで構わない。
でもそうした感じ方自体が一つの型であり反復です。そのことを知っておくとルーティン化した固着から逃れやすくなります。
反復だから貧しいわけじゃない。実り豊かな体験こそ反復から成り立ちます。
我々の<世界体験>は、豊かであるか否かに関係なく、反復であることは間違いありません。
僕は映画批評の仕事もしますが、やはり型の反復に注目してきました。
視覚体験(映像)の型と意味論(物語)の型。双方の型を奇蹟的にシンクロさせた作品を愛でてきました。作品のオリジナリティは僕にとっても多くの観客にとっても実はどうでもいい。
僕の考えでは、型の反復だからいけないのではなく、型の反復だから良い。
僕は人形劇が好きですが、型の反復の中で毎回違ったものが見えてしまうのはなぜかに注目してきました。それは必ずしも表現者によってコントロールできない。
無数の反復を重ねた挙げ句、突如奇蹟的な力が人形に降りたりします。
大塚
たとえば、美大のいわゆるアート系の学生などに、この絵本をやらせると、奇をてらおうとするわけですよ。
たとえば、絵本の最後の目的地から逆算して頭で考えて変に技法を凝らしたものを作ろうとする。そうすると、アーキタイプがまったく現れないんです。
目的地って実はトラップです。その意味では極めて凡庸なものになるケースが多いですね。
言葉としては変かもしれませんが自分なりのアーキタイプを作る。それらをちゃんとやったら宮崎駿になれるわけじゃないですか。
宮崎駿の物語って、構造として美しくきちんとしているとともに、一個一個のアーキタイプが彼の卓越した力によってキャラクターや表現になっているわけです。
宮台
型の反復の中でなぜ面白いものが生じるのかは興味深いですね。
「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」というインチキ西部劇がそうです。
ストーリーはめちゃくちゃですが、構造は明確です。近代的観点では、物語が破綻していて、メッセージも皆目不明。でも面白いのです。
構造は明確ですが、ストーリーの係りと結びを追うと、係りの大半が結ばれない。
脚本教室だったら大減点ですが、誰も気にかけない。
それどころか観終わって「<世界>は確かにそうなっている」と寓話の土産を持ち帰る。
構造の反復があれば、一貫したストーリーや分かりやすいメッセージがなくても、人はそこに<世界>を見出す。カオスの中に<世界>を見る。
ストーリーもメッセージも不明瞭なのにすごく面白く、しかも面白い理由を説明できない。でも本当に面白いってそういうことじゃないかな。
大塚
つまり表面的な伏線とかネタの整合性みたいなことの意味ですよね。それと「物語の構造」の整合性とか破綻って違う水準ですよね。それがなかなか区別されにくい。
あえてストーリーと物語という言葉を分けて使えば、表面的なストーリーのロジックみたいなことの後ろ側にもうひとつ別の物語の論理性がある。
そういった構造の水準中で伝わっていく、あるいはかたちづくられていくものがある。
人の思考がそういう構造の中を流れていくことで人間の内的なあり方、人間らしさ、世界体験、世界認識みたいなものがそれこそ構造化していく。
今、そういう部分がすごく脆弱化しているのではないか。
だから逆に物語論的な構造が隠されている、一見物語に見えないものにとても弱い。
世界自体が物語として動いていくときに、それに対抗する訓練ができていなければ批評的であることさえできない。自分の内側が構造化されていないから、外側の見えない構造に流されちゃう。だから論理的なつもりでも表面的な論理の整合性しか捉えられなくなってしまう。構造という論理を管理できない。
宮台
ビルドゥングス・ロマン(成長物語)の重要な側面は、観る側の枠組みが90分間の間に文字通り成長するところにあるます。
成長物語は、近代小説のように時間的フォーカス(物語)として語られてはならず、時間的フォーカスから見ると破綻した形で、構造的フォーカスに即して語られるべきだと感じます。
そうした語り口があって初めて、観る側が日常の時間的フォーカスにこだわる地点から離脱して、「そんなことはどうでもいいんだ」と感じるまでに至る成長を体験できます。
構造的フォーカスに即して語られた成長物語は、それ自体、読者や観客に離陸点と着陸点の落差をもたらす通過儀礼になります。そうした成長物語はオリジナリティどころか元型の反復に満ちています。
構造的フォーカスに即して語られた成長物語は、型の反復とストーリー的整合性とがズレることを通じて、「重要だと思っていたことが本当は重要ではなかったのだ」と気づかせるからです。
大塚
オリジナリティがあることや固有であることと、何かの反復としてあることは二律背反でも矛盾でもなんでもなくて、同時に成立する。
そのことが分かったとき、いろいろと新しい自分が見えてくるのになって僕は思います。
すべては反復なのだという言い方の中にペシミスティックに収斂してしまってもそれは知的な怠惰でしかないし、かといってアンチ「形式」、反「制度」みたいな考え方だけで固有性を求めていくことのあがきに関しては、もう一定の結論みたいなものが出てしまっているわけですよね。
形式を反復することと固有であることの二重性をきちんと生きられるかどうか。
形式の中に「私」を当てはめて、構造の中で物語り、そして別の誰かと同じ「元型」を引き出していながら、しかしできあがったものは違う。そこが一番やっていて面白いし、たぶん大事なところだと思います。
同じことをやっていながら違うみたいな不思議さですよね。
そこに何かオリジナリティがなければいけないとか「私」がなければいけないみたいな呪縛に対して、割とすっきりとした答えは出せるのかな、とやっていって思います。
「物語の構造」をキーワードにした、非常に刺激的な話だと思います。
特に、宮台さんの「成長物語」はこうあるべきだ、という言葉。
単純に“作劇のヒント”にしてはいけない、「甘く危険な言葉」ではありますが、知っておかなければいけない認識でもあるでしょうし。
という感じで。
でわ。
2010年8月18日水曜日
「ガールフレンド・エクスペリエンス」を観る
シネマート新宿の一番小さいスクリーンで、ソダーバーグの「ガールフレンド・エクスペリエンス」を観る。
ソダーバーグによる、「セックス」を扱った小品、ということで、必然的に「嘘とビデオテープ」を連想させる素材ですが、まぁ、悪いワケねーだろ、と。
そういう、受け手側の期待を裏切らず、しかし、収まらず、という。いい感じのテンションの作品です。
というのが、まず、作品全体の印象。
作品通してのストーリーというのは、なんのことはない、「高級娼婦の自分探し」みたいな、まぁ、書いてみると陳腐このうえない言葉になってしまうんですが、そこを、ソダーバーグのカメラと編集と、その他諸々の「映画力」によって、カネを払う価値のある作品に、ある意味強引に仕立てあげる、という。
まぁ、小さなスクリーンだったんですが、劇場で観たのはホントに正解だったと思います(騙された、という人もいたかもしれませんが)。
家でDVDなりブルーレイなりで観る場合も、可能な限り大画面で観た方がいいですね(とにかく、小さな画面で観ることだけは避けた方がいいです。ガクッときちゃいますから、絶対)
で。
ポイントは、この「自分探し」の中身。
主人公は娼婦ですから、当然、作品で描かれる生活も、彼女の顧客、つまり、彼女を「一晩買う」(しかも、超高額で)男たちとのやりとり、なワケです。
そこで、男たちは彼女に、自分には「本当の君」を見せて欲しい、と。
そう求めるワケです。
それが、主人公が「本当の自分」を自問し始めるキーなワケですけど、ところが、その、主人公に「本当の自分」を求める男たちが、彼女の前で「本当の自分」をさらけ出しているのか、と。
つまり、彼ら、社会の成功者(高級娼婦を一晩買うことができるほどの成功者、という意味です)の「本当の自分」とは、と。
そういう話なワケですね。
で。
結論みたいなのを先に言ってしまうと、そういう彼らの「本当の自分」こそが空疎で空虚だった、と。
「精神的な繋がり」を、「一晩限り」でありながら「最高の恋人」でもある主人公に求める男たち。
ところが、求める当の本人たちが、ただただマネーの話、つまり、景気の話とか自分の収入の話しかしないまま、老いていく、という。
探したあげくに、特に大事そうなモノは見つからない、と。
そういうことになってる。
そして、「本当の自分」も、「そういうモノがあるはずだ」という顧客が延々それを話すことで始めて浮き上がってくる、という、つまり、「自分探し」も外部からの働きかけによって生まれてきた「物語」なのだ、という部分。
彼女も、最初はただ「うざい」みたいに思うだけだったんだけど、だんだんそんな気持ちになってくる。
つまり、一応「自分って何だろ」みたいに思い始める。
しかし、彼女の「本当の姿」を見せてほしいと望む男たちが語る「自分」は、単に「景気が変わって収入が減ってどうしょうもない」ことしか語らない。
「肉体的なつながり」の他にあるもの、として暗示される「精神的なつながり」ですら、それは単に一方的にグチを言えるだけの関係にすぎない、という。
つまり、彼女を「自分探し」に誘った男たち自身の言葉に、実はハナから意味がなかった、ということなワケで、つまり、彼女自身の「自分探し」も、当然、(彼女にとっては)意味を持たないまま、モノローグとダイアローグがただただ流れていく。
そして、これは結構意外なラストだったんだけど、ユダヤ人の宝石商の「顧客」に呼ばれて、主人公はオフィスを訪ねるワケですね。
ここでのソダーバーグのカメラは、もう不自然なほどに被写体に近かったりして、変な、ただしとても効果的なショットが続くんですが、ここで彼女は、「顧客との肉体的な繋がり」に、なんだか安心したような表情を見せる。
正確には「表情を見せる」のではまったくなくて、あたかも「そういう風に感じている」と解釈させる、ということなんですけど(従って、このラストの解釈は、人によってかなり異なるんじゃないか、という感じはあります)。
つまり、(あくまで俺自身の解釈に拠ると)彼女はここで、ぐるっと一回りして、顧客との「自分との肉体関係を金銭と交換する」という関係性に「自分の居場所」を見つける、という、まぁ、再確認するワケですけど、そういうことになってる。
元のスタート地点に戻ってくる、ということなんですけど、それは、「自分のアイデンティティー」なんて、実は「他人との関係性」の中にしかないものなんだ、ということの示唆でもあって。
まぁ、そこまでは深読みしすぎかな。。。
俺の解釈や深読み云々は別にして、とにかく、ソダーバーグは、少なくとも、「(はじけた)バブルの被害者」たち自身が「バブル」なんだよ、という、そういう身も蓋もない「アメリカのセレブたちの心象風景」にタッチすることには成功しているワケです。
(もちろん、ソダーバーグ自身がその「セレブたち」の一員であることも大事なポイントで、実際作品中にも、「ハリウッドの住人」が登場人物として登場してます。)
と、まぁ、テーマ云々を語ると、結構長々と続いちゃうアレなんですが、面白いのは、こういう内容を、かなり手クセに頼る、というか、もの凄いサラッと、軽やかなタッチで製作しちゃってる、ということ。
画もそうだし、製作のプロダクション自体もかなりライト・ウェイトな組織で作ってるんじゃないかなぁ、と。
それと、主人公は現役バリバリのポルノスターらしいんですけど、ソダーバーグの軽やかな画の中にしっかり収まってるんですね。
これって、結構スゴい。
過剰に演技させたり、枠に押し込めたり、あるいは、エゴを放置したりむき出しにさせたり、という「罠」に陥ることなく、という。
単純に、ここだけでもソダーバーグの「腕」の良さを堪能できるんじゃないかな、なんて。
さすがソダーバーグ、と。
サラッとやってみせたワケですけど、実はそんなに簡単なことじゃないハズですから。
他の役者陣も、みんな無名のはずなんだけど、ホントに上手。(英語が分からないから、そう見えてるだけかもしれないけど)
特に、こういう空気感がとても大事な作品っていうのは、低予算であっても、というか、こういう作品だからこそ、空気感を壊さないような、高度が演技力が必要だったりするワケで。
高度な演技力、あるいは、高度な演出力。
で、当然この作品は、「演出力」が高かったのでしょう。すばらしいです。
ダイアローグのある程度の部分はアドリブでしゃべっている、ということらしいんですけど。
というか…。
何げに、こうやって延々と分析してみせることすら、ソダーバーグにとってはお笑いなのかもなー。
なんつって、ね。
まぁ、いい作品ですよ。
主人公、超キレイだしね。
それだけでも観る価値アリ、です。
ソダーバーグによる、「セックス」を扱った小品、ということで、必然的に「嘘とビデオテープ」を連想させる素材ですが、まぁ、悪いワケねーだろ、と。
そういう、受け手側の期待を裏切らず、しかし、収まらず、という。いい感じのテンションの作品です。
というのが、まず、作品全体の印象。
作品通してのストーリーというのは、なんのことはない、「高級娼婦の自分探し」みたいな、まぁ、書いてみると陳腐このうえない言葉になってしまうんですが、そこを、ソダーバーグのカメラと編集と、その他諸々の「映画力」によって、カネを払う価値のある作品に、ある意味強引に仕立てあげる、という。
まぁ、小さなスクリーンだったんですが、劇場で観たのはホントに正解だったと思います(騙された、という人もいたかもしれませんが)。
家でDVDなりブルーレイなりで観る場合も、可能な限り大画面で観た方がいいですね(とにかく、小さな画面で観ることだけは避けた方がいいです。ガクッときちゃいますから、絶対)
で。
ポイントは、この「自分探し」の中身。
主人公は娼婦ですから、当然、作品で描かれる生活も、彼女の顧客、つまり、彼女を「一晩買う」(しかも、超高額で)男たちとのやりとり、なワケです。
そこで、男たちは彼女に、自分には「本当の君」を見せて欲しい、と。
そう求めるワケです。
それが、主人公が「本当の自分」を自問し始めるキーなワケですけど、ところが、その、主人公に「本当の自分」を求める男たちが、彼女の前で「本当の自分」をさらけ出しているのか、と。
つまり、彼ら、社会の成功者(高級娼婦を一晩買うことができるほどの成功者、という意味です)の「本当の自分」とは、と。
そういう話なワケですね。
で。
結論みたいなのを先に言ってしまうと、そういう彼らの「本当の自分」こそが空疎で空虚だった、と。
「精神的な繋がり」を、「一晩限り」でありながら「最高の恋人」でもある主人公に求める男たち。
ところが、求める当の本人たちが、ただただマネーの話、つまり、景気の話とか自分の収入の話しかしないまま、老いていく、という。
探したあげくに、特に大事そうなモノは見つからない、と。
そういうことになってる。
そして、「本当の自分」も、「そういうモノがあるはずだ」という顧客が延々それを話すことで始めて浮き上がってくる、という、つまり、「自分探し」も外部からの働きかけによって生まれてきた「物語」なのだ、という部分。
彼女も、最初はただ「うざい」みたいに思うだけだったんだけど、だんだんそんな気持ちになってくる。
つまり、一応「自分って何だろ」みたいに思い始める。
しかし、彼女の「本当の姿」を見せてほしいと望む男たちが語る「自分」は、単に「景気が変わって収入が減ってどうしょうもない」ことしか語らない。
「肉体的なつながり」の他にあるもの、として暗示される「精神的なつながり」ですら、それは単に一方的にグチを言えるだけの関係にすぎない、という。
つまり、彼女を「自分探し」に誘った男たち自身の言葉に、実はハナから意味がなかった、ということなワケで、つまり、彼女自身の「自分探し」も、当然、(彼女にとっては)意味を持たないまま、モノローグとダイアローグがただただ流れていく。
そして、これは結構意外なラストだったんだけど、ユダヤ人の宝石商の「顧客」に呼ばれて、主人公はオフィスを訪ねるワケですね。
ここでのソダーバーグのカメラは、もう不自然なほどに被写体に近かったりして、変な、ただしとても効果的なショットが続くんですが、ここで彼女は、「顧客との肉体的な繋がり」に、なんだか安心したような表情を見せる。
正確には「表情を見せる」のではまったくなくて、あたかも「そういう風に感じている」と解釈させる、ということなんですけど(従って、このラストの解釈は、人によってかなり異なるんじゃないか、という感じはあります)。
つまり、(あくまで俺自身の解釈に拠ると)彼女はここで、ぐるっと一回りして、顧客との「自分との肉体関係を金銭と交換する」という関係性に「自分の居場所」を見つける、という、まぁ、再確認するワケですけど、そういうことになってる。
元のスタート地点に戻ってくる、ということなんですけど、それは、「自分のアイデンティティー」なんて、実は「他人との関係性」の中にしかないものなんだ、ということの示唆でもあって。
まぁ、そこまでは深読みしすぎかな。。。
俺の解釈や深読み云々は別にして、とにかく、ソダーバーグは、少なくとも、「(はじけた)バブルの被害者」たち自身が「バブル」なんだよ、という、そういう身も蓋もない「アメリカのセレブたちの心象風景」にタッチすることには成功しているワケです。
(もちろん、ソダーバーグ自身がその「セレブたち」の一員であることも大事なポイントで、実際作品中にも、「ハリウッドの住人」が登場人物として登場してます。)
と、まぁ、テーマ云々を語ると、結構長々と続いちゃうアレなんですが、面白いのは、こういう内容を、かなり手クセに頼る、というか、もの凄いサラッと、軽やかなタッチで製作しちゃってる、ということ。
画もそうだし、製作のプロダクション自体もかなりライト・ウェイトな組織で作ってるんじゃないかなぁ、と。
それと、主人公は現役バリバリのポルノスターらしいんですけど、ソダーバーグの軽やかな画の中にしっかり収まってるんですね。
これって、結構スゴい。
過剰に演技させたり、枠に押し込めたり、あるいは、エゴを放置したりむき出しにさせたり、という「罠」に陥ることなく、という。
単純に、ここだけでもソダーバーグの「腕」の良さを堪能できるんじゃないかな、なんて。
さすがソダーバーグ、と。
サラッとやってみせたワケですけど、実はそんなに簡単なことじゃないハズですから。
他の役者陣も、みんな無名のはずなんだけど、ホントに上手。(英語が分からないから、そう見えてるだけかもしれないけど)
特に、こういう空気感がとても大事な作品っていうのは、低予算であっても、というか、こういう作品だからこそ、空気感を壊さないような、高度が演技力が必要だったりするワケで。
高度な演技力、あるいは、高度な演出力。
で、当然この作品は、「演出力」が高かったのでしょう。すばらしいです。
ダイアローグのある程度の部分はアドリブでしゃべっている、ということらしいんですけど。
というか…。
何げに、こうやって延々と分析してみせることすら、ソダーバーグにとってはお笑いなのかもなー。
なんつって、ね。
まぁ、いい作品ですよ。
主人公、超キレイだしね。
それだけでも観る価値アリ、です。
2010年8月1日日曜日
「インセプション」を観た
えー、この間観た「インセプション」の感想です。
監督は、クリストファー・ノーラン。主演はディカプリオ。あと、渡辺謙ですね。
いやぁ。傑作。
このエントリーを、どこから書けばいいのかが浮かばず、何日か、悩んじゃってました。
さて。
まず!
まずはとにかく、脚本が素晴らしいですね。
脚本の、なんていうか、物語のプロットももちろん素晴らしい完成度なんですが、要素(ストーリーを駆動する因子)の組み合わせ方、というか。
まず!
なにに一番“やられた”かというと、とにかく「重力」なんですよねぇ。
「目覚めるには、“落とす”必要がある」という。“キック”の設定。
確か、作中でも「内耳には薬は作用しないんだ」みたいな台詞があったと思うんですけど、何気に適当な設定だと思ったんですよ。最初は。
そりゃ、目覚めるためには、なんらかのギミックは必要なワケで。
で、そういう“設定”を作ったんだろう、と。
ところが!
車を落とす、と。それも“キック”なワケですが、後々に「夢の中の夢(の中の夢)」に入っていくと、それが無重量状態として反映される、とか。
そして、その無重量・無重力状態の中で「どう落とすか?」みたいなサブプロットが展開されるに至っては…。
天才すぎる!
観てて、発狂しそうになりますよね!
コマもそう! 同じですよ。
「夢か現実か区別するため」に、それぞれが持っている、と。
で、それは、ただ区別するためじゃなくって、心の平安を保つためでもあるんだ、と。
コマって!
こんな原始的なモノって、そうそう発想できないと思うんですよねぇ。
コマ!
「夢か現実か?」って、普通に考えたら「痛覚」ですもんねぇ。
でも、それだとストーリーが狙いどおりには収まらない、と。
「夢か現実かの区別がつかなくなる」という、主人公(の、妻)のサブプロットがあって、それが成立しなくなりますから。
で、コマ。
なんだろ。
「合言葉」とか?
そのくらいしか思い浮かばないっスよ。「この世界が現実かそうじゃないかを区別するための方法」のアイデアは。
回転し続けるコマ。
なんていうかねぇ。それって、「終わりがくる」ことの暗喩(でもないか?)なワケですよね。
夢ならば、永遠に続くだろう、という。
しかーし!
現実ならば、それは“倒れる”のだ、と。
この、ギミックとして存在している要素が、実は同時に、ストーリーを前に推進するためのエンジンにもなっている、という。
「ストーリーの経済学」的な言葉で表現すると、「生産効率が高い」ワケですよ。
いろんな要素が、がっちり噛み合いながら、それぞれのエンジンでストーリーが駆動するワケで、なんていうか、それは体感速度の速さでもあって。
例えば、“キック”という要素は、「夢の中では時間の長さが長い」という要素と組み合わさって、二つの世界で、同時に二つのミッションを成立させているワケです。
「雪山の中の病院で、目的を果たして、さらに“キック”をしてホテルに戻ってくる」、その後で「ホテルで“キック”をして車に戻ってくる」。で、「車を橋の上から落とすという“キック”をして飛行機に戻る」と。(もう一つ、ビルから飛び降りるという“キック”も)
ところが、車が追手に追われているために、予定より速く橋から落ちてしまう。
これが、「雪山」と「ホテル」に作用するワケですね。急いで“キック”をしないといけない。
しかも、「ホテル」では、無重量状態の中で。
別に、「落下速度を内耳で体感する」こと以外にもあり得るワケですよね。
それこそ、なにか錠剤を飲むことで眠りから醒める、という設定にしてもいいワケで。
しかし、それだとダメなワケです。
複数の世界で同時に「クリアしなければならないミッションが主人公たちに与えられる」ということにはならない。
例えば、パラレルワールドものでいうと、“ファンタジー世界”では「魔女と戦わなければならない」というミッションがあり、“現実世界”では「ママ(家族)にバレてはいけない」というミッションが与えられる、という風に、異なる形のミッション(あるいは、“障壁”)が主人公に与えられる、というスタイルがあるワケです。
複数のストーリーラインが同時に進行していって、それぞれに異なるミッションが与えられる、とか。
あるいは、“ファンタジー世界”から“現実世界”に現れた魔女を巡って、「魔女と戦う」ことをしつつ「しかし正体はバレてはいけない」という、異なるミッションを同時にクリアしないといけない、とか。
しかし、これだと、あまり“効率”は良くないワケです。それぞれのミッションについて、それぞれ時間を割かないといけない。
しかーし!
この作品の構造では、どちらも「“キック”して戻る」ことがミッションなワケです。
もちろん、それぞれの世界でのミッションは、「御曹司とその父親とを対面させる」「元奥さんに連れ去られた御曹司を取り戻す(=主人公の個人的なトラウマを乗り越える)」という、“本筋”のミッションがちゃんとあるワケですが、大事なのは、それだけなら、時間的な制約、というのがなくなってしまうワケで。
つまり、「“キック”して戻る」ということが、ストーリーラインのいろんな所に作用している。
つまり、“効率”が良い、という。
で。
もう一つ「天才だな」と思ったのが、サブプロットが幾つかあるんですけど、その扱い方、ですよね。
まず、主人公の個人的なトラウマ、というのがあって。
この、壮大な設定やストーリーを、個人的・極私的な問題に落とし込む(あるいは、並行して走らせる)、というのは、ハリウッドのある意味定番なスタイルというか、作品の世界を過剰に肥大化させないための定番な方法だったりするワケですが。
まず、この扱いが巧い。
夢の世界に常に現れて、愛している存在なのに、邪魔をしてくる、という。
要するに、“障壁”なワケですけど。
例えば、「マトリックス」に欠けていてこの作品にあるのは、こういう部分だと思うんですね。
逆に言うと、この“落とし込み方”が巧いことで、延々と3部作で、とか、「話はデカかったけど最後の10分で無理やり決着をつけられちゃってなんか消化不良」だとか、「結局夢オチ」だとか、そういうドツボに陥ることを回避しているんじゃないかな、と。
それと、“列車”というモチーフ。「列車は苦手なんだ」という冒頭の台詞から、ずっと“伏線”であったワケです。線路をチラ見せする、とか。
そういうのを回収していく手際が巧い。いちいち変に最後まで引っ張らない、とかね。
それと、なによりも、「実は“植え込み”をしたことがあったんだ」と。
そして、それが“悲劇”を引き起こしていたんだ、という。
「この世界は現実じゃない」!
ヤバい!
“現実世界”に連れ戻すために植え付けたひと言なのに、たったひと言なのに、しかし、という。
普通なら、このシークエンスだけでひとつの作品になり得るトピックですよ。
それを、ある意味では、使い捨てですから。
「この世界は現実じゃない」という台詞のあまりにデカいインパクトも含めて、このシークエンスこそが、この作品に“深み”を与えているワケです。
「コマは回り続けることなく、倒れる」という部分が、ここに作用しているワケですね。
倒れることで、主人公は現実であることを確かめる。
そしてそれは、「愛する人はもう戻ってこない」ことを再確認する作業でもあるワケです。
う~ん。
この感じ。
素晴らしい。
それともう一つ、渡辺謙演じるサイトーの生死、ですね。
もちろん、この「クライアントであるサイトーが死にかけている」というのは、主人公たちの行動に“制約”と“焦り”を、つまり“緊迫感”をチャージし続ける、という効果があるワケですが、それだけじゃない、と。
このサブプロットのために、なんていうか、わざわざ、倒置法が導入されているワケです。
本筋のプロットじゃないのに、というか、“一番最後”を倒置するワケじゃない、という。
ここがスゴい!
ここで言う“一番最後”というのは、ストーリー全体のラスト、この作品で言うと、「主人公が子供たちと再会する」という部分ですが、「老いた渡辺謙を再訪する」というのは、“一番最後”じゃないワケです。その手前。
ところが、この作品の構造でいうと、「これは倒置法ですよ」ということが明示されているワケですから、観ている側は、「あれ?」みたいな感じになるワケですよ。
ちょっと困惑させられる。
まぁ、なんていうか、これにまんまとやられた、と。
俺は。
巧いな、と。
で。(すでに非常に長いエントリーになってますが、まだ書きたいことがあるので…)
で。
もう一つ絶対に言及しないといけないポイントがあって、それは、「夢に侵入する」テクノロジーについての説明が一切ない、というトコ。
あの、スーツケースで持ち歩いて、真ん中に大きな丸いボタンがあって、仲間はみんな、コードみたいなのをセットしてそれで繋がって、というアレ。
「誰かの夢」に侵入する、ということで、その夢の持ち主が“設計者”で、設計者として街をまるごと設計できる才能の持ち主じゃなきゃいけない、ということで、超キュートなあの女の人がスカウトされる、ということなワケですけど。
その、その部分以降のところはちゃんと説明されるワケです。睡眠薬の特殊な配合ができる凄腕の“調合師”が必要だ、とか。
が。
あの、そもそものテクノロジーの説明が一切ない。最初から、普通に「人の夢に潜り込める」とことになってる。
これは、あの「ダークナイト」を経てのアレだと思うんです。
作中の「夢の中の夢(の中の夢)」という言葉に倣うなら、「フィクションの中のリアル」と「フィクションの中のフィクション」。
フィクション(映画作品)の中で描かれるフィクション(現存していないテクノロジー)。
これと、「フィクションの中のリアル(現代)」が、まったく違和感なく、一つの世界観の中に収まっている(共存している)。
例えば、「空を飛ぶ車」ということであれば、「これは未来の話ですよ」という注釈が必ずあったワケです。いわゆる“未来都市”の遠景をファーストショットで魅せる、とか、そういう手法も含めて。
この作品でも、あの、街並みがグーッとせり上がって“二つ折り”になる、というのも、「これは夢の中でのことです」という注釈が入ってるワケですね。それで、あの画が成立している。
そういう“説明”“注釈”がない。
普通に、夢の中には入り込めることになってる。
これは、完全に「ダークナイト」での成功を受けての、ある意味では手法の流用なワケですけど。
この、フィクションとリアルの配合の妙!
上手いなぁ、と。
普通は説明したくなりますよ。
だって、“植え込み(インセプション)”の方法については、延々説明させてるんですからね。
当然、説明しようとすれば、これは間違いなく冗長になってしまう。
少なくとも、“体感速度”は鈍るでしょう。時間も必要なワケで、その分、クライマックスの時間を削る必要もでてくる。
そういう諸々の可能性を回避しているワケですね。敢えて説明しないことで。
うん。
あとは、もっと色々書きたいことはあるんですが、それこそ冗長になってしまうんで、ひとつだけ。
マイナス点があるとすれば、やっぱり、渡辺謙の英語の感じかなー。
別に、英語が下手だってことじゃなくって、なんていうか、謙さんの「声の魅力」が、やっぱ、英語だといまいち浮き上がってこない、というか、ね。(日本語は母音が伸びるから、ということだと思います)
あの深みのある声、というか、発声っていうのは、英語を発する時の筋肉からじゃでてこないのかね?
まぁ、英語を話す(つまり、ハリウッドに出て行く)ことで手に入れたモノの方が大きいワケで、それは、どうしょうもない部分なんだけど。
やっぱねー。
今の渡辺謙のスケール感を収めることができる器っていうのは、今の日本の映画産業には、ちょっとないですよねぇ。
もったいないなー、なんて思いますけど。
それから、この、ノーラン監督の画の魅力について。
この人の良さのひとつに、ガバーッと引いた画を見せるときに、その引き方の具合が絶妙だったりするんですね。
その前のカットとの繋ぎ方の巧さもあると思うんですけど、引いた画がシャープっていうのは、なんていうか、才能がある人がキチンと効果を計算して始めて成立する、というか。
で。
この作品でも当然そういう部分は堪能できるんですが、しかし、冒頭からしばらくは、それが出てこないんです。
あとから考えると、ここも巧いなぁ、と。
ワザと混乱させるように作ってるワケですよ。導入のところは。
カメラも落ち着かないし、アップばっかりだし。
最初は「なんだよ。なんか変なテレビサイズの画ばっかだな」なんて、違和感っていうか、軽く心配してた、というか。
もちろん、そういう違和感みたいなのは最初だけで、まぁ、それも狙いだったんだろうな、と。
そういうトコもねー。
上手いよねー。
あ、あと、一番深い世界の、あのビルの並ぶ感じは、「AKIRA」のラストシーンかな、なんて思っちゃいました。
違うかな?
個人的には、街並みが二つ折りになるショットよりも、あの辺の一連の描写の方がインパクトありましたね。
あの「幾何学的に正確に並んでいる」というのは、「コマが永遠に倒れない」というのと、意味的には完全に繋がっていることでもあるので。
う~ん。
こんな感じっスかね~。
長々と書いてしまいました。
あしからず。
(が、まだ書き足りない感じもあります…)
とにかく、劇場の大スクリーンで観ないといけない作品だと思います。
ぜひ!
でわ。
2010年7月28日水曜日
おめーら、ちっとオモテ出ろや
昨日の新聞に載っていた、月一連載の「文芸時評」というコラムをご紹介します。
書いているのは、斎藤美奈子さん。
まぁ、有名な方ですね。
「文芸時評」というのは、毎月毎月、その月に発表された文芸作品(小説)をまとめて批評する、というコラムです。
なるほど、と。
「半径数メートル圏内の見飽きた素材」ね。
例えば、ここの部分を逆に「特異な技術」でもって突き抜けたのが、宮藤官九郎ですよねぇ。
さらに、「特異な技術」として、「構造」を導入して、その組み合わせで魅せる、ということをしているのが、(恐らく)宅間孝行なのかなぁ、なんて。
まぁ、そういうアレは別にいいですね。
「果敢なハンターたれ」と。
う~ん。
頑張ります。
書いているのは、斎藤美奈子さん。
まぁ、有名な方ですね。
「文芸時評」というのは、毎月毎月、その月に発表された文芸作品(小説)をまとめて批評する、というコラムです。
小説の題材を作者はどこから調達してくるのだろう。
かつての日本では、作家自身の私生活を題材に書く人が少なくなかった。いわゆる私小説である。その延長線上で、一族の歴史に取材した作品もある。大きく分ければ「体験型」だ。
もう一つは外に題材を求める方法だ。実在の人物、歴史上の事件、過去の文学作品、土地の伝説。題材は幾らでもあるけれど、この場合は取材ないし資料探索が欠かせない。いわば「調査型」である。
小説が素材(何を書くか)より、包丁さばき(どう書くか)にウェートのあるジャンルである以上、体験であれ調査であれ素材を徹底的に加工する「加工のワザ」こそが問われるわけだけれども、それは承知で少々反動的なことを言ってみたい。でもさ、やっぱり素材についても考えたほうがいいよ、と。
今月の文芸誌掲載作品のなかで素材の力が生きていたのは柳田大元「ボッグブリッチ」だ。小説の舞台はエチオピア。語り手の「私」は奴隷貿易について調べるためにある集落を訪ね、「ひしゃげた家」に伯母と住む少女と出会うのである。
作者はアフガニスタンで拘束された経験を綴った「タリバン拘束日記」という著書もあるフリーのジャーナリストである。紛争地帯の放浪経験(?)が作品に昇華した例。そこで勝負されても困る、という意見もあるだろうけれど、こういう小説は机の上だけではけっして生まれないだろう。
もう一作、素材について考えさせられたのは楊逸「ピラミッドの憂鬱」である。
正直、アイデア先行で、小説として奥行きには乏しい。ただ、ひとりっ子政策によって、子どもが「小皇帝」として四二一(祖父母四人と親二人が子ども一人の教育に全力をそそぐ)型ピラミッドの頂点に君臨する現代の中国と、親の力が失われた途端にピラミッドが簡単に逆転する(子どもに一族の負担がかかる)皮肉とがこの小説の構造を支えていて、何かを考えさせはするのである。
楊逸は日本語で小説を書く中国出身の作家として注目されたのだったが、彼女の旺盛な執筆活動を見ていると「書く材料は幾らでもあるんだから」と言われている気がしてならない。
逆に言うと、日本の若い作家にとって材料を探すのがいかに困難か、である。今月の目玉だったはずの綿矢りさ「勝手にふるえてろ」や藤代泉「手のひらに微熱」が作者の美点を示しながら相対的に「弱い」と言わざるを得ないのは、素材の弱さに起因するのではないか。
半径数メートル圏内の見飽きた素材を読ませるには特異な技術が必要で、だったら新鮮な素材を探しに外に飛び出した方が「勝ち」の場合も少なくないのだ。最終形態が小説でも、そのプロセスは研究論文やノンフィクションとそう変わらないかもしれない。繊細な料理人になる前に果敢なハンターたれ、である。
なるほど、と。
「半径数メートル圏内の見飽きた素材」ね。
例えば、ここの部分を逆に「特異な技術」でもって突き抜けたのが、宮藤官九郎ですよねぇ。
さらに、「特異な技術」として、「構造」を導入して、その組み合わせで魅せる、ということをしているのが、(恐らく)宅間孝行なのかなぁ、なんて。
まぁ、そういうアレは別にいいですね。
「果敢なハンターたれ」と。
う~ん。
頑張ります。
2010年7月18日日曜日
「ハゲタカ」のD
NHKのドラマ「ハゲタカ」のディレクターさんのインタビューが新聞に載ってました。
大友啓史さん。
現在は、こちらも大人気の福山雅治主演の大河ドラマ「龍馬伝」の演出をしている、ということで、まぁ、最注目の才能、という感じでしょうか。
映像表現のすべての基本はリアリティー。 フィクションという大きなウソをつくには、画面に映る隅々まで、きちんと真面目に小さなウソを積み重ねないと。
福山さんと(吉田東洋役の)田中泯さんが同じ画面の中で芝居をすることにゾクゾクしていますが、お客さんが「田中泯すごい」と同時に、「福山もすごい」と反応しているのが分かります。普通の役者では出せない「真情」を福山さんが表すんです。 (「真情」とは)ウソのない感情と言ってもいいかもしれません。役者の演技に一番邪魔なのが、例えば「こう撮られたらカッコいい」といった自意識です。自意識から離れた、芝居と芝居の合間にふと見せる生の表情、手や指のしぐさも含めて醸し出すニュアンス、そういったものをどう拾えるかが演出の勝負だと思っています。 役者さんに「こっち向いて、あっち動いて、目線はここに」と決めておくテレビドラマのオーソドックスな「カット割り」の演出では、真情を拾うのは難しい。長いシーンになればなるほど、一連の長い演技の中で、本人も想定しない予想外の感情が生々しく出てきたりする。そこにリアリティーがある。演技を超え、福山雅治と龍馬が完全に重なっていく瞬間、というのでしょうか。「役者の演技に一番邪魔なのが、自意識です」と。 ずばり、ですよね。 ところが、「自意識でパンパン」な人こそが、俳優=人に自分の姿を見せる、という職業を志す、という矛盾があって。 なかなかね、と。 まぁ、俺の話はいいですね。 「真情」。 それを拾っていくのが演出の勝負だ、と。 なるほどねぇ。 役者の「真情」を引き出すだけじゃダメなんですね。 それを、技術的に「どう拾えるか」と。 うん。 とか言いながら、「ハゲタカ」観たことないんです…。
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