2009年4月12日日曜日

ゲームのマエストロが語る「物語」

皆さんお馴染み、任天堂の宮本茂さんのインタビューが新聞に載ってまして。
代表作なんかは、ウィキペディアで(>>>こちら)。



娯楽作品には楽しませるための道筋が必要です。そのなかで最も強いのは物語。ゲームでも物語は必要なんやけど、結局、エンディングとともにゲームを終えた気分になる。次の作品ではもっと豪華な、もっと膨大な物語が求められて、その結果、ゲームは物凄い時間がかかるものになってしまった。でも、作り手と遊び手が双方向のやり取りをするメディアに、物語はあまり重要じゃないと思ってるんです。遊び手がもっと主体的にかかわれる環境を作っていく方が楽しい。


確かに物語を作ることに興味がありません。その点「ゼルダ」は外れているかもしれない。でも「ゼルダ」は物語が終わってからでも、その世界で遊び続けられるように作ってあるんですよ。遊び手が自由に考えて行動するうちに、こちらの準備した以上の気持ちが心に残っていくような仮想空間の臨場感にこだわっています。でも、普通はやっぱり物語の終わりをゲームの終わりだと思ってしまうんですよね。

「映画化するゲーム」っていう路線っつーのがあって、そこからは一線を画す、というのが、宮本・任天堂のスタイルなワケですね。WiiとかDSの成功っていうのは、そういうことなワケで。


ま、違う畑なんでしょうけど、“巨人”ではありますから。なかなか勉強になる言葉だと思います。
なんていうか、「物語」に対する、客観的な定義になってるんじゃないか、なんて。



で。
ちょっとズレますが、同じ記事に、糸井重里さんの「宮本茂評」も載っていたので。

普通の生活者としての完成度が高い。町内会やPTA、親類づきあいといった、クリエーティヴな仕事をしている人なら避けて通りたい仕事を、あれほどマメにやっている人はいません。

普通の人だから、日常生活から面白さを発見することが巧い。だから体重を量るゲーム『Fit』も生まれた。

人間の普遍性がどこにあるかを今日も明日も探しているような人だから、世界に通じるものを作れるんです。

ですって。


それから、最後にもう一度、宮本さんの言葉を。

ずっと京都で仕事をしているせいか、よく「東京ローカル」という言い方をします。東京のはやりを追っている限り世界で通用せえへんよ、と。世間の反応って簡単に反転するから、とにかく周りにないものを作ることが大事。何年か後に評価されて残るかもしれない。
娯楽産業ですから何を出してもリスクはある。追いかけがいのあるリスクかどうか、そんな見極めの打率は上げたいなあ、と常日頃思ってます。

「追いかけがいのあるリスクかどうか」と。


ということでした。

2009年4月6日月曜日

「ツォツィ」を観る

バリ・シネで「ツォツィ」を観る。

確か、この年(日本で公開されたのは2007年)の最重要作品のひとつだった印象を持っている、南アフリカを舞台にした作品です。

作品自体やストーリーに、爆発力みたいなのはそんなにないんですが、まぁ、いい作品ですよね。


舞台は南アフリカの、ソウェトというスラム(確か、南アフリカではホームランドなんて呼び方をしていたと思います)。
物語の背景としては、悪名高いアパルトヘイトが終わり、差別からは解放されたものの、依然として経済的には“底辺”に押し込まれている黒人(の、特に若者たち)、ということですね。
黒人の中にも経済的に成長している人たちがいて、ストーリーでは、主人公と、その“成功者”たちとの間にある断絶が描かれている、と。


なんていうか、やはり、スラムであったり、特に高層ビル群を背景にしたスラム、なんていうのは、映像的にはかなりインパクトがあって。
その、“荒廃”を描くのには、誤解を恐れずに言えば、“的確”なワケですね。
すでにそこにある画なワケですし。

この作品を、そういう「現実」とか「リアル」とか、そういう言葉で語ると、作品自体がシンプルなだけに、ちょっと安易な“感想”に陥ってしまいがちなんですけど。


ちょっと見方を変えると、要するに、例えば日本のオタクたちは、自分たちの「心の荒廃」を描くのに適した画が現実にないが為に、わざわざ虚構の世界を“平面世界”に作り上げて、わざわざその世界が危機に陥って、わざわざその登場人物に仮想恋愛する、という形式をとりつつ感情移入していく、という“手順”があったりして。


ま、それはさておき。


この作品で最後に掲示されている“救い”とはなんだろうか、と。
あるいは、“救われない”こととは。

救われる現実もあるだろうし、救われない虚構もあるだろうし。
あるいは、単に救われない現実も。


「子供を返したら一緒に暮らしてくれるか?」と主人公は問いかけるワケですね。
で、その問いに、回答は返されない。
それは、彼女が、「返したら」の先を知っているからですね。逮捕されるであろう、ということを。
実際、大邸宅の門の前で主人公は逮捕されちゃうしね。

その大邸宅って、結構すごくて、生まれたばかりの“赤ちゃんの寝室”でさえ、主人公の暮らす家よりデカい、という、この圧倒的な経済の格差の、不条理。


ただ、その、テーマっていうのは、そこから一歩踏み込んでたりもしてるんですね。父親、母親との関係、ということで。
主人公の母親は、病気(おそらく、エイズ)に罹っていて。父親は無知ゆえに(その無知は、貧困に因るものなんでしょうけど)、主人公と母親との関係を嫌って。
そもそもの“屈折”は、そこにあって。

偶然“手中”にしてしまった赤ん坊に固執してしまうのは、その赤ん坊が、主人公の「未来への希望」なのではなく「失った過去」を追体験させてくれるから、ですね。

結構、そこはポイントなのかなぁ。
未来じゃなく、過去と現実だけが語られている、という。
未来がない、つまり、未来を語れない、ということの悲劇性。




という感じでしょうか。やや中途半端な終わり方ですけど。




あ。
音楽は、良いですね。使い方は、定番っちゃ定番ですが。鋭さと熱さを持った音を、完璧な間で入れていく、という。

カメラは、こちらもあまり凝ったことはせず、構図と色味で勝負しよう、と。この、低い位置から、スクウェアなアングルで真っ直ぐ撮る、という画は、力があって良いです。ライティングも含めて、作品の力強さを支えているのは、このカメラワークなんだろうな、なんて。


そんな感じで。何度も繰り返し観たい作品ですね。

2009年3月16日月曜日

「パニックルーム」を観る

ミッドナイトアートシアターで、デヴィッド・フィンチャー監督、ジョディ・フォスター主演の「パニック・ルーム」を観る。

ちょっと遅れましたが、感想でっす。


ま、ハリウッドを代表する監督になりつつある、という、D・フィンチャーですが、ワリとこの人って、当たり外れがあると思うんですね。(いや、もちろん、どんな監督さんにもあると思うんですけど)

で、この作品は、外れ。
面白くて、いい作品だとは思うんですが、いわゆる“映像派”としてのフィンチャー節っていうのは、イマイチかなぁ、と。もっと振り切って欲しい、というか。


逆に、その“映像美”じゃない部分は、結構面白かったりするんですよね。
キャストも、J・フォスターはもちろんなんだけど、「黒い鶴瓶」フォレスト・ウィテカーは相変わらずの名優っぷりだし、もうひとり、覆面(目だし帽、本来はスキー用の、眼の部分だけ出ているニットキャップ)をずっと被ってる犯人役のヤツがいて、こいつが超イイ。


妙に足が細くて肩幅が広くて、みたいな、姿勢が猫背っていうのも含めて、体型だけで変な存在感があったりして。
こいつのキャラは、ホントにいいです。

あとはストーリーの展開ですよねぇ。
家一軒、避難用の部屋一つ、登場人物も親子2人(父親も少しだけ登場)と、3人組の犯人たち、というだけで、いかにスリリングに話を引っ張っていくか、と。
それはもちろん、シナリオの強さという部分なワケで。

実は冒頭の、背景説明に当たる部分が結構長くて、ちょっとイライラするんですけど、それはしょうがないですね。この導入部分は、「この作品は、いまから100分間、このスタイルでいきますよ」という宣言になってる気がします。


ポイントは、犯人たちの関係性ですね。上下関係というのがあって、それが、小さなトピックをきっかけに、動くんですけど、これが結構面白い。
事前の情報の誤り、持っている武器、それぞれの担当と特技、動機とやる気、アイデア、などなど。こちらの“心理劇”の主役は、もちろんF・ウィテカーです。


というぐらいですかねぇ。ここまで書いてきて、ハタと手が止まってしまいました。
娘さんの糖尿病というのは、ま、ありがちっちゃありがちですからね。特にアメリカ映画には、こういう設定が多い気がします。(グーニーズには喘息持ちのヤツがいましたよね)


エンディングもいまいち。

あ、でも、社会の格差についての台詞をF・ウィテカーが言うんですが、それは良かったです。
犯罪の動機としての「社会の格差」っていうを、ちゃんと織り込んでいる、ということで。

階層の、アッパークラスと底辺の人間が交わる“現場”のひとつが、実は犯罪(クライム・シーン)なのだ、という。

うん。
そんな感じでした。


2009年3月11日水曜日

バザン曰く「映画とは何か」

新聞に、アンドレ・バザンというフランスの映画批評家についてのコラムが載っていたので、ご紹介。
コラムを書いているのは、野崎歓さんという、東大の准教授という肩書きの方。


バザンという人は、ヌーヴェルヴァーグを先導した1人、ということでいいみたいです。カイエ・デュ・シネマの創刊者の1人、ということで。
ウィキペディアの当該項目には、「精神的父親」なんて表現もあります。


映画は写真から成り立っているという単純な事実に、バザンは批評の基盤を据えた。人の手の加わらない、対象物の機械的再現が映画を支えている。
そこから、現実をまるごと捉える「リアリズム」こそが映画本来の目的であるとする主張が生まれる。

同時代のルノワールやロッセリーニ、ウェルズらの作品から、バザンはあらかじめ想定された意味やストーリーには還元されない「曖昧」な現実を、そのまま凝視する姿勢を学んだ。彼らの作品の「深い画面」と「長回し撮影」に、世界と対峙する映画の倫理を見出したのである。
そんな彼が、安易な編集技術や政治的メッセージへのもたれかかりを許さなかったのは当然だろう。

一徹な理想を抱きながら、「不純」さにこそ映画の豊かさを認めたところに、批評家としての度量の大きさがあった。
小説や絵画といった隣接領域との連関を重視し、テレビの登場も肯定的に捉えようとした。探検映画や児童映画、特撮やアニメーションまでもが、動物と子供をこなよく愛したこの批評家の視野には、くっきりと収まっていた。

ロラン・バルトの写真論や、ジル・ドゥルーズの映画論に、バザンの影響はたやすく見て取れる。
それ以上に昨今の、中国語圏を中心とするアジア映画の新たな展開は、バザン的な映画が鮮烈な輝きを放ち続けていることの何よりの証しだ。
文化革命後、イデオロギーを脱した思考を模索する中国文化人たちは、『映画とは何か』の中国語訳をむさぼり読んだという。

「現実を信じる」映画に希望を託したバザンの思考は、バーチャル映像に翻弄され続ける現代の我々にとって、貴重な反省と抵抗のよすがとなる。

「映画論」であると同時に、「映画批評論」でもあるコラムですね。
『映画とは何か』っていうのは、バザンという人が書いた評論集なんだそうです。


「あらかじめ想定された意味やストーリーには還元されない曖昧な現実」「不純さにこそ映画の豊かさを認めた」と。
作り手(監督、シナリオライター、カメラマン、美術、俳優たち)が作ろうとして作った映像の中に、作ろうとはしていなかった“他のモノ”が、映り込んでしまっている。
そここそが、現実であり、“不純物”であり、しかし、それこそが映画なのだ、と。

それを「現実の投影」としてすくい取り、言葉によって明らかにし、作品としての映画の「背後の物語」として付け加える。
あるいは、その作品を、「背後の物語」を手がかりに、歴史であったり社会全体であったりという、「より大きな物語」の中に、位置や居場所を提案する。
ま、そういうのが批評の力なのかな、なんて。

分かりませんけどね。批評家じゃないんで。


しかし、「リアリズムこそが映画本来の目的である」と。

バザン。
いつか、その理論に触れる機会があればいいなぁ、と思います。


2009年3月10日火曜日

「ミニミニ大作戦」を観る

金曜日のミッドナイト・アートシアターで観た「ミニミニ大作戦」の感想でっす。

普通にミニが好きなんで、良かったですね。


という感想では、一行で終わってしまうので、もう少しアレしないといけないんですが。


まず、ゴレンジャーで言うトコの赤レンジャー役の俳優が、イマイチなんですよねぇ。
ピンクレンジャーはシャーリーズ・セロンだし(超キレイ!)、適役はエドワード・ノートンだし、C・セロンの親父は名優ドナルド・サザーランドだし、ミドレンジャーはモス・デフだし、ということで、いい役者さんが揃ってるんだけど、猿顔でなんだかイモ演技のモサッとしたヤツが主役で、そこが最後までピンと来ない、という。
もうちょっとキリッとした、“リーダー”顔のヤツ連れてこいよ、と。作戦の立案を“担当”する役回りなんですけど、こいつが1番バカっぽい顔してんだよねぇ。


ただ、作品自体は、ちゃんとツボを抑えていて、面白かったりして。
ミニが、カワイイ外見とは裏腹に、かなりワイルドに疾走してて、結構それだけでも痛快感があったりして。

いや、普通に好きな作品です。


いわゆる“B級アクション”な感じなんだけど、それなりにお金かかってるし。ちょっとお色気もあるし。



この作品は、同名の作品のリメイクで、元の作品はイギリスで作られたモノで、そっちも観てみたい気になってます。
イギリス映画が、どういうカーアクションを作るのか。興味が湧きますね。
この作品のカーアクションは、普通の、LAが舞台ということもあって、いかにもアメリカ映画という感じの(上手ですけど)アレなんですけど。


ま、感想はこんな感じでしょうかね。
至極健全なアクション映画の良作、ということで。


すげー単純に、日本でもリメイクやればいいのにな。
東京を舞台にして。
面白いと思うけどね。

リメイクじゃなくても、いい感じにパクったりして。
東京の地下(非合法な世界の比喩じゃなくって、ストレートに“地面の下”という意味です)っていうのは、個人的にはかなりオイシいネタになるんじゃないか、なんて、ずっと前から思ってるんですよねぇ。


2009年3月9日月曜日

「ジャケット」を観る

土曜日の深夜にTBSでやってた「ジャケット」を観る。

“ジャケット”というのは、拘束着のことですね。
しかも、タイトルからは一切想像させない、タイムスリップねた。その拘束着がタイムマシンになってる、みたいな感じで。

と、書き出しは“イマイチ感”が出てますが、さにあらず、いい作品でした。

つーか、すげー良かった。


最後まで観たあとに、チラッとエグゼクティヴP(製作総指揮)の名前が出て、そこにジョージ・クルーニーとスティーヴン・ソダーバーグの名前があって、ちょっとビックリ。
2人が一枚噛んでたんですね。

ま、それはさておき。


湾岸戦争で記憶障害を負ってしまった若い男(若くないのか?)が主人公で、彼が、記憶障害ゆえに自分に被せられた濡れ衣の疑いを晴らすことができず、犯罪者を専門に収容している精神病院に入院することになる。
そこで、“マッドドクター”のヤバめな治療法の実験台にさせられてしまって、と。
ここまでが、かなり長い前置き。

ベトナム戦争が、いわゆるニューシネマ期の“作家”たちにテーマを与え、幾つもの傑作が(間接的に、あるいはそれは悲劇でもあるんだけど)そこから生まれたワケです。
で、この作品も、時代が変わって、湾岸戦争というトピックに対する、例えば反戦であるとか、そういうテーマの作品なのかな、とか想像したりもしたんですが、実はそうでもなく。

実は、ワリとシンプルなタイムスリップものでした。


誤解を恐れずに言えば、基本的には「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と一緒ですから。

現在と未来を行き来して、未来で知ることが出来る情報を持って現在に帰って、現在の状況を良い方向に導くことで、暗かった未来を明るい未来に変える、と。


で。
この作品では、主人公が「あと何日かで死んでしまう」ということが、未来で主人公自身に明かされるワケです。
未来へ飛んでいった主人公が、そこで出会った人に、「あなたは死ぬ」と教えてもらう、と。
で、現在に戻って、あれやこれやがあるんですが、やっぱり主人公は死んでしまう。

ここがミソ。

それでも、未来は明るくなってる。

うまく言えないんですが、そこがマジで感動的なんですよ!


「自分が死ぬ」という運命は変えられない。それは受け入れる、と。
しかし、その前に、手紙を書いたり、人に会いに行ったり、ということをして、そして未来を変える。


その、変わった後の未来のシーンが、いいんですよねぇ。
同じダイナーから出てくるのに、前はそこのウェイトレスだった女性が、今は、病院勤務という“ちゃんとした職”に就いていて、そしてなにより、乗ってる車が全然違う。


去年、自分で書いたシナリオのテーマが「自己犠牲」だったんですけど、ちょっとそこら辺にも通じる感じがしちゃって、余計にグッと来たのもあって。



実は、シナリオとしては、あんまり上手く運ばれてなかったりするんですけどね。アラがあったり、適当だったり。
だいたい、どうしてタイムスリップするかも分からないし。

でも、そういうディティールはさておき、という力があるのも確かだな、と。
そう思いました。



というワケで、良作。収穫多し。
という作品でした。

2009年2月27日金曜日

「記憶の棘」を観る

午後のロードショーで、二コール・キッドマン主演の「記憶の棘」を観る。

今週の午後のロードショーは、N・キッドマン特集でした。
で、この作品。ちなみに原題は「Birth」。邦題の方が詩的でいい気がします。


10年前に突然死んでしまった恋人の“生まれ変わり”と自称する10歳の少年が目の前に現れ、結婚を控えたN・キッドマンがかつての愛の“記憶”に揺れ動く、と。

いい作品でした。

低予算な感じも好感。
基本的には室内劇で、舞台はニューヨークってことになってて、セントラル・パークとかが出てくるんですが、まぁそのくらいで、だいたいアパートメント(超高級の、です)の部屋とか、あとは1階のエントランスとか、そういうシチュエーションが多用されていて。
キューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」方式ですね。


で。
いきなり冒頭、モノクロかというぐらいのトーンの画で、グッと引きつけますよね。画の力で。
死んでしまうことになる男が、シルエットだけで登場して。とりあえず、冬の、積雪で真っ白なこのシーンのインパクトは、かなり大きいな、と。

あとは、カットの繋ぎの間。ぶつ切りみたいな感じで、妙なタイミングでつながれているんです。これが、なんか妙な感覚をずっと感じさせてて。
あとは、N・キッドマンの家族とその家の、やたら無機質な感じ。特に、そのアパートメントの、門衛がいるエントランスのショットは、印象的でした。

いろんな想像をこっちがしちゃうんですよねぇ。余計な想像を。
また、余計な想像が出来る時間的な間が多くて。
そういうのが、全部ミスリードとして生きてくる、という。
やっぱり、“生まれ変わり”というテーマだけに、ミステリアスな雰囲気が醸し出されると、そっちが気になってしょうがない、みたいなのもあるし。
だいたい、N・キッドマンの、非人間的な美しさ、というのも、ね。よく合ってますよ。


で。
実は、という部分が、個人的にはかなり好きです。イントロダクションの次のシークエンス、婚約披露パーティーでの、“奥さん”の挙動不審ぶりが、伏線として明かされて。
「あー、そうだったのか」と。
これ、よくよく考えると、そんなにたいした造りじゃないんだけどねぇ。伏線としては。そんなに凝ったアレじゃない。
だけど、俺は引っかかっちゃいましたよ。
ショートカットのN・キッドマンに見惚れちゃってただけ、というのもありますけど。(それはしょうがないっス。だって、美しすぎますから)


このストーリーはねぇ。
いいですよ。ホントに。


“裏切り”、ということですよね。
愛を裏切っていた過去。その過去を暴いて突きつけてやろうと思ってきたものの、怖くなって隠してしまう。
そして、少年が、「ボクは生まれ変わりだ」と言って現れる。
少年の、ある意味無邪気な現実逃避願望、というだけじゃない説得力が、この子役の存在感にはあって。

というより、演出サイドが、そういう風に撮ってる、ということかな。なんか物憂げな、悲しそうな表情を、冷たい、大理石に囲まれたエントランスという空間に置く、と。

そして、その少年の愛も“裏切り”であって。

それから、これは凄いと思ったんだけど、N・キッドマンがその後に、婚約者の仕事場に現れて、会議室でその男に告げる言葉。

なんだかんだで、すべて虚像なんだ、みたいな。
この痛烈すぎるメッセージ(と、俺は受け取りましたが)は、あまりに冷たすぎる。このニヒリズム。
いやぁ、と。



それから、この作品の、黒味を強調した画のトーンは、何度も書いてますけど、大好きです。
もう一つ、音が、なかなか個性的でした。ノイズみたいな効果音みたいな、そういう変な音が、心象音みたいな使われ方をしていて。それはちょっと参考になったかな。自分でやれるかどうかは、また別のハードルがあるんでしょうけど。



というワケで、なかなかの良作でした。
ショートカットのニコール・キッドマン、素晴らしいです。