ミッドナイトアートシアターで、デヴィッド・フィンチャー監督、ジョディ・フォスター主演の「パニック・ルーム」を観る。
ちょっと遅れましたが、感想でっす。
ま、ハリウッドを代表する監督になりつつある、という、D・フィンチャーですが、ワリとこの人って、当たり外れがあると思うんですね。(いや、もちろん、どんな監督さんにもあると思うんですけど)
で、この作品は、外れ。
面白くて、いい作品だとは思うんですが、いわゆる“映像派”としてのフィンチャー節っていうのは、イマイチかなぁ、と。もっと振り切って欲しい、というか。
逆に、その“映像美”じゃない部分は、結構面白かったりするんですよね。
キャストも、J・フォスターはもちろんなんだけど、「黒い鶴瓶」フォレスト・ウィテカーは相変わらずの名優っぷりだし、もうひとり、覆面(目だし帽、本来はスキー用の、眼の部分だけ出ているニットキャップ)をずっと被ってる犯人役のヤツがいて、こいつが超イイ。
妙に足が細くて肩幅が広くて、みたいな、姿勢が猫背っていうのも含めて、体型だけで変な存在感があったりして。
こいつのキャラは、ホントにいいです。
あとはストーリーの展開ですよねぇ。
家一軒、避難用の部屋一つ、登場人物も親子2人(父親も少しだけ登場)と、3人組の犯人たち、というだけで、いかにスリリングに話を引っ張っていくか、と。
それはもちろん、シナリオの強さという部分なワケで。
実は冒頭の、背景説明に当たる部分が結構長くて、ちょっとイライラするんですけど、それはしょうがないですね。この導入部分は、「この作品は、いまから100分間、このスタイルでいきますよ」という宣言になってる気がします。
ポイントは、犯人たちの関係性ですね。上下関係というのがあって、それが、小さなトピックをきっかけに、動くんですけど、これが結構面白い。
事前の情報の誤り、持っている武器、それぞれの担当と特技、動機とやる気、アイデア、などなど。こちらの“心理劇”の主役は、もちろんF・ウィテカーです。
というぐらいですかねぇ。ここまで書いてきて、ハタと手が止まってしまいました。
娘さんの糖尿病というのは、ま、ありがちっちゃありがちですからね。特にアメリカ映画には、こういう設定が多い気がします。(グーニーズには喘息持ちのヤツがいましたよね)
エンディングもいまいち。
あ、でも、社会の格差についての台詞をF・ウィテカーが言うんですが、それは良かったです。
犯罪の動機としての「社会の格差」っていうを、ちゃんと織り込んでいる、ということで。
階層の、アッパークラスと底辺の人間が交わる“現場”のひとつが、実は犯罪(クライム・シーン)なのだ、という。
うん。
そんな感じでした。
2009年3月16日月曜日
2009年3月11日水曜日
バザン曰く「映画とは何か」
新聞に、アンドレ・バザンというフランスの映画批評家についてのコラムが載っていたので、ご紹介。
コラムを書いているのは、野崎歓さんという、東大の准教授という肩書きの方。
バザンという人は、ヌーヴェルヴァーグを先導した1人、ということでいいみたいです。カイエ・デュ・シネマの創刊者の1人、ということで。
ウィキペディアの当該項目には、「精神的父親」なんて表現もあります。
「映画論」であると同時に、「映画批評論」でもあるコラムですね。
『映画とは何か』っていうのは、バザンという人が書いた評論集なんだそうです。
「あらかじめ想定された意味やストーリーには還元されない曖昧な現実」「不純さにこそ映画の豊かさを認めた」と。
作り手(監督、シナリオライター、カメラマン、美術、俳優たち)が作ろうとして作った映像の中に、作ろうとはしていなかった“他のモノ”が、映り込んでしまっている。
そここそが、現実であり、“不純物”であり、しかし、それこそが映画なのだ、と。
それを「現実の投影」としてすくい取り、言葉によって明らかにし、作品としての映画の「背後の物語」として付け加える。
あるいは、その作品を、「背後の物語」を手がかりに、歴史であったり社会全体であったりという、「より大きな物語」の中に、位置や居場所を提案する。
ま、そういうのが批評の力なのかな、なんて。
分かりませんけどね。批評家じゃないんで。
しかし、「リアリズムこそが映画本来の目的である」と。
バザン。
いつか、その理論に触れる機会があればいいなぁ、と思います。
コラムを書いているのは、野崎歓さんという、東大の准教授という肩書きの方。
バザンという人は、ヌーヴェルヴァーグを先導した1人、ということでいいみたいです。カイエ・デュ・シネマの創刊者の1人、ということで。
ウィキペディアの当該項目には、「精神的父親」なんて表現もあります。
映画は写真から成り立っているという単純な事実に、バザンは批評の基盤を据えた。人の手の加わらない、対象物の機械的再現が映画を支えている。
そこから、現実をまるごと捉える「リアリズム」こそが映画本来の目的であるとする主張が生まれる。
同時代のルノワールやロッセリーニ、ウェルズらの作品から、バザンはあらかじめ想定された意味やストーリーには還元されない「曖昧」な現実を、そのまま凝視する姿勢を学んだ。彼らの作品の「深い画面」と「長回し撮影」に、世界と対峙する映画の倫理を見出したのである。
そんな彼が、安易な編集技術や政治的メッセージへのもたれかかりを許さなかったのは当然だろう。
一徹な理想を抱きながら、「不純」さにこそ映画の豊かさを認めたところに、批評家としての度量の大きさがあった。
小説や絵画といった隣接領域との連関を重視し、テレビの登場も肯定的に捉えようとした。探検映画や児童映画、特撮やアニメーションまでもが、動物と子供をこなよく愛したこの批評家の視野には、くっきりと収まっていた。
ロラン・バルトの写真論や、ジル・ドゥルーズの映画論に、バザンの影響はたやすく見て取れる。
それ以上に昨今の、中国語圏を中心とするアジア映画の新たな展開は、バザン的な映画が鮮烈な輝きを放ち続けていることの何よりの証しだ。
文化革命後、イデオロギーを脱した思考を模索する中国文化人たちは、『映画とは何か』の中国語訳をむさぼり読んだという。
「現実を信じる」映画に希望を託したバザンの思考は、バーチャル映像に翻弄され続ける現代の我々にとって、貴重な反省と抵抗のよすがとなる。
「映画論」であると同時に、「映画批評論」でもあるコラムですね。
『映画とは何か』っていうのは、バザンという人が書いた評論集なんだそうです。
「あらかじめ想定された意味やストーリーには還元されない曖昧な現実」「不純さにこそ映画の豊かさを認めた」と。
作り手(監督、シナリオライター、カメラマン、美術、俳優たち)が作ろうとして作った映像の中に、作ろうとはしていなかった“他のモノ”が、映り込んでしまっている。
そここそが、現実であり、“不純物”であり、しかし、それこそが映画なのだ、と。
それを「現実の投影」としてすくい取り、言葉によって明らかにし、作品としての映画の「背後の物語」として付け加える。
あるいは、その作品を、「背後の物語」を手がかりに、歴史であったり社会全体であったりという、「より大きな物語」の中に、位置や居場所を提案する。
ま、そういうのが批評の力なのかな、なんて。
分かりませんけどね。批評家じゃないんで。
しかし、「リアリズムこそが映画本来の目的である」と。
バザン。
いつか、その理論に触れる機会があればいいなぁ、と思います。
2009年3月10日火曜日
「ミニミニ大作戦」を観る
金曜日のミッドナイト・アートシアターで観た「ミニミニ大作戦」の感想でっす。
普通にミニが好きなんで、良かったですね。
という感想では、一行で終わってしまうので、もう少しアレしないといけないんですが。
まず、ゴレンジャーで言うトコの赤レンジャー役の俳優が、イマイチなんですよねぇ。
ピンクレンジャーはシャーリーズ・セロンだし(超キレイ!)、適役はエドワード・ノートンだし、C・セロンの親父は名優ドナルド・サザーランドだし、ミドレンジャーはモス・デフだし、ということで、いい役者さんが揃ってるんだけど、猿顔でなんだかイモ演技のモサッとしたヤツが主役で、そこが最後までピンと来ない、という。
もうちょっとキリッとした、“リーダー”顔のヤツ連れてこいよ、と。作戦の立案を“担当”する役回りなんですけど、こいつが1番バカっぽい顔してんだよねぇ。
ただ、作品自体は、ちゃんとツボを抑えていて、面白かったりして。
ミニが、カワイイ外見とは裏腹に、かなりワイルドに疾走してて、結構それだけでも痛快感があったりして。
いや、普通に好きな作品です。
いわゆる“B級アクション”な感じなんだけど、それなりにお金かかってるし。ちょっとお色気もあるし。
この作品は、同名の作品のリメイクで、元の作品はイギリスで作られたモノで、そっちも観てみたい気になってます。
イギリス映画が、どういうカーアクションを作るのか。興味が湧きますね。
この作品のカーアクションは、普通の、LAが舞台ということもあって、いかにもアメリカ映画という感じの(上手ですけど)アレなんですけど。
ま、感想はこんな感じでしょうかね。
至極健全なアクション映画の良作、ということで。
すげー単純に、日本でもリメイクやればいいのにな。
東京を舞台にして。
面白いと思うけどね。
リメイクじゃなくても、いい感じにパクったりして。
東京の地下(非合法な世界の比喩じゃなくって、ストレートに“地面の下”という意味です)っていうのは、個人的にはかなりオイシいネタになるんじゃないか、なんて、ずっと前から思ってるんですよねぇ。
普通にミニが好きなんで、良かったですね。
という感想では、一行で終わってしまうので、もう少しアレしないといけないんですが。
まず、ゴレンジャーで言うトコの赤レンジャー役の俳優が、イマイチなんですよねぇ。
ピンクレンジャーはシャーリーズ・セロンだし(超キレイ!)、適役はエドワード・ノートンだし、C・セロンの親父は名優ドナルド・サザーランドだし、ミドレンジャーはモス・デフだし、ということで、いい役者さんが揃ってるんだけど、猿顔でなんだかイモ演技のモサッとしたヤツが主役で、そこが最後までピンと来ない、という。
もうちょっとキリッとした、“リーダー”顔のヤツ連れてこいよ、と。作戦の立案を“担当”する役回りなんですけど、こいつが1番バカっぽい顔してんだよねぇ。
ただ、作品自体は、ちゃんとツボを抑えていて、面白かったりして。
ミニが、カワイイ外見とは裏腹に、かなりワイルドに疾走してて、結構それだけでも痛快感があったりして。
いや、普通に好きな作品です。
いわゆる“B級アクション”な感じなんだけど、それなりにお金かかってるし。ちょっとお色気もあるし。
この作品は、同名の作品のリメイクで、元の作品はイギリスで作られたモノで、そっちも観てみたい気になってます。
イギリス映画が、どういうカーアクションを作るのか。興味が湧きますね。
この作品のカーアクションは、普通の、LAが舞台ということもあって、いかにもアメリカ映画という感じの(上手ですけど)アレなんですけど。
ま、感想はこんな感じでしょうかね。
至極健全なアクション映画の良作、ということで。
すげー単純に、日本でもリメイクやればいいのにな。
東京を舞台にして。
面白いと思うけどね。
リメイクじゃなくても、いい感じにパクったりして。
東京の地下(非合法な世界の比喩じゃなくって、ストレートに“地面の下”という意味です)っていうのは、個人的にはかなりオイシいネタになるんじゃないか、なんて、ずっと前から思ってるんですよねぇ。
2009年3月9日月曜日
「ジャケット」を観る
土曜日の深夜にTBSでやってた「ジャケット」を観る。
“ジャケット”というのは、拘束着のことですね。
しかも、タイトルからは一切想像させない、タイムスリップねた。その拘束着がタイムマシンになってる、みたいな感じで。
と、書き出しは“イマイチ感”が出てますが、さにあらず、いい作品でした。
つーか、すげー良かった。
最後まで観たあとに、チラッとエグゼクティヴP(製作総指揮)の名前が出て、そこにジョージ・クルーニーとスティーヴン・ソダーバーグの名前があって、ちょっとビックリ。
2人が一枚噛んでたんですね。
ま、それはさておき。
湾岸戦争で記憶障害を負ってしまった若い男(若くないのか?)が主人公で、彼が、記憶障害ゆえに自分に被せられた濡れ衣の疑いを晴らすことができず、犯罪者を専門に収容している精神病院に入院することになる。
そこで、“マッドドクター”のヤバめな治療法の実験台にさせられてしまって、と。
ここまでが、かなり長い前置き。
ベトナム戦争が、いわゆるニューシネマ期の“作家”たちにテーマを与え、幾つもの傑作が(間接的に、あるいはそれは悲劇でもあるんだけど)そこから生まれたワケです。
で、この作品も、時代が変わって、湾岸戦争というトピックに対する、例えば反戦であるとか、そういうテーマの作品なのかな、とか想像したりもしたんですが、実はそうでもなく。
実は、ワリとシンプルなタイムスリップものでした。
誤解を恐れずに言えば、基本的には「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と一緒ですから。
現在と未来を行き来して、未来で知ることが出来る情報を持って現在に帰って、現在の状況を良い方向に導くことで、暗かった未来を明るい未来に変える、と。
で。
この作品では、主人公が「あと何日かで死んでしまう」ということが、未来で主人公自身に明かされるワケです。
未来へ飛んでいった主人公が、そこで出会った人に、「あなたは死ぬ」と教えてもらう、と。
で、現在に戻って、あれやこれやがあるんですが、やっぱり主人公は死んでしまう。
ここがミソ。
それでも、未来は明るくなってる。
うまく言えないんですが、そこがマジで感動的なんですよ!
「自分が死ぬ」という運命は変えられない。それは受け入れる、と。
しかし、その前に、手紙を書いたり、人に会いに行ったり、ということをして、そして未来を変える。
その、変わった後の未来のシーンが、いいんですよねぇ。
同じダイナーから出てくるのに、前はそこのウェイトレスだった女性が、今は、病院勤務という“ちゃんとした職”に就いていて、そしてなにより、乗ってる車が全然違う。
去年、自分で書いたシナリオのテーマが「自己犠牲」だったんですけど、ちょっとそこら辺にも通じる感じがしちゃって、余計にグッと来たのもあって。
実は、シナリオとしては、あんまり上手く運ばれてなかったりするんですけどね。アラがあったり、適当だったり。
だいたい、どうしてタイムスリップするかも分からないし。
でも、そういうディティールはさておき、という力があるのも確かだな、と。
そう思いました。
というワケで、良作。収穫多し。
という作品でした。
“ジャケット”というのは、拘束着のことですね。
しかも、タイトルからは一切想像させない、タイムスリップねた。その拘束着がタイムマシンになってる、みたいな感じで。
と、書き出しは“イマイチ感”が出てますが、さにあらず、いい作品でした。
つーか、すげー良かった。
最後まで観たあとに、チラッとエグゼクティヴP(製作総指揮)の名前が出て、そこにジョージ・クルーニーとスティーヴン・ソダーバーグの名前があって、ちょっとビックリ。
2人が一枚噛んでたんですね。
ま、それはさておき。
湾岸戦争で記憶障害を負ってしまった若い男(若くないのか?)が主人公で、彼が、記憶障害ゆえに自分に被せられた濡れ衣の疑いを晴らすことができず、犯罪者を専門に収容している精神病院に入院することになる。
そこで、“マッドドクター”のヤバめな治療法の実験台にさせられてしまって、と。
ここまでが、かなり長い前置き。
ベトナム戦争が、いわゆるニューシネマ期の“作家”たちにテーマを与え、幾つもの傑作が(間接的に、あるいはそれは悲劇でもあるんだけど)そこから生まれたワケです。
で、この作品も、時代が変わって、湾岸戦争というトピックに対する、例えば反戦であるとか、そういうテーマの作品なのかな、とか想像したりもしたんですが、実はそうでもなく。
実は、ワリとシンプルなタイムスリップものでした。
誤解を恐れずに言えば、基本的には「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と一緒ですから。
現在と未来を行き来して、未来で知ることが出来る情報を持って現在に帰って、現在の状況を良い方向に導くことで、暗かった未来を明るい未来に変える、と。
で。
この作品では、主人公が「あと何日かで死んでしまう」ということが、未来で主人公自身に明かされるワケです。
未来へ飛んでいった主人公が、そこで出会った人に、「あなたは死ぬ」と教えてもらう、と。
で、現在に戻って、あれやこれやがあるんですが、やっぱり主人公は死んでしまう。
ここがミソ。
それでも、未来は明るくなってる。
うまく言えないんですが、そこがマジで感動的なんですよ!
「自分が死ぬ」という運命は変えられない。それは受け入れる、と。
しかし、その前に、手紙を書いたり、人に会いに行ったり、ということをして、そして未来を変える。
その、変わった後の未来のシーンが、いいんですよねぇ。
同じダイナーから出てくるのに、前はそこのウェイトレスだった女性が、今は、病院勤務という“ちゃんとした職”に就いていて、そしてなにより、乗ってる車が全然違う。
去年、自分で書いたシナリオのテーマが「自己犠牲」だったんですけど、ちょっとそこら辺にも通じる感じがしちゃって、余計にグッと来たのもあって。
実は、シナリオとしては、あんまり上手く運ばれてなかったりするんですけどね。アラがあったり、適当だったり。
だいたい、どうしてタイムスリップするかも分からないし。
でも、そういうディティールはさておき、という力があるのも確かだな、と。
そう思いました。
というワケで、良作。収穫多し。
という作品でした。
2009年2月27日金曜日
「記憶の棘」を観る
午後のロードショーで、二コール・キッドマン主演の「記憶の棘」を観る。
今週の午後のロードショーは、N・キッドマン特集でした。
で、この作品。ちなみに原題は「Birth」。邦題の方が詩的でいい気がします。
10年前に突然死んでしまった恋人の“生まれ変わり”と自称する10歳の少年が目の前に現れ、結婚を控えたN・キッドマンがかつての愛の“記憶”に揺れ動く、と。
いい作品でした。
低予算な感じも好感。
基本的には室内劇で、舞台はニューヨークってことになってて、セントラル・パークとかが出てくるんですが、まぁそのくらいで、だいたいアパートメント(超高級の、です)の部屋とか、あとは1階のエントランスとか、そういうシチュエーションが多用されていて。
キューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」方式ですね。
で。
いきなり冒頭、モノクロかというぐらいのトーンの画で、グッと引きつけますよね。画の力で。
死んでしまうことになる男が、シルエットだけで登場して。とりあえず、冬の、積雪で真っ白なこのシーンのインパクトは、かなり大きいな、と。
あとは、カットの繋ぎの間。ぶつ切りみたいな感じで、妙なタイミングでつながれているんです。これが、なんか妙な感覚をずっと感じさせてて。
あとは、N・キッドマンの家族とその家の、やたら無機質な感じ。特に、そのアパートメントの、門衛がいるエントランスのショットは、印象的でした。
いろんな想像をこっちがしちゃうんですよねぇ。余計な想像を。
また、余計な想像が出来る時間的な間が多くて。
そういうのが、全部ミスリードとして生きてくる、という。
やっぱり、“生まれ変わり”というテーマだけに、ミステリアスな雰囲気が醸し出されると、そっちが気になってしょうがない、みたいなのもあるし。
だいたい、N・キッドマンの、非人間的な美しさ、というのも、ね。よく合ってますよ。
で。
実は、という部分が、個人的にはかなり好きです。イントロダクションの次のシークエンス、婚約披露パーティーでの、“奥さん”の挙動不審ぶりが、伏線として明かされて。
「あー、そうだったのか」と。
これ、よくよく考えると、そんなにたいした造りじゃないんだけどねぇ。伏線としては。そんなに凝ったアレじゃない。
だけど、俺は引っかかっちゃいましたよ。
ショートカットのN・キッドマンに見惚れちゃってただけ、というのもありますけど。(それはしょうがないっス。だって、美しすぎますから)
このストーリーはねぇ。
いいですよ。ホントに。
“裏切り”、ということですよね。
愛を裏切っていた過去。その過去を暴いて突きつけてやろうと思ってきたものの、怖くなって隠してしまう。
そして、少年が、「ボクは生まれ変わりだ」と言って現れる。
少年の、ある意味無邪気な現実逃避願望、というだけじゃない説得力が、この子役の存在感にはあって。
というより、演出サイドが、そういう風に撮ってる、ということかな。なんか物憂げな、悲しそうな表情を、冷たい、大理石に囲まれたエントランスという空間に置く、と。
そして、その少年の愛も“裏切り”であって。
それから、これは凄いと思ったんだけど、N・キッドマンがその後に、婚約者の仕事場に現れて、会議室でその男に告げる言葉。
なんだかんだで、すべて虚像なんだ、みたいな。
この痛烈すぎるメッセージ(と、俺は受け取りましたが)は、あまりに冷たすぎる。このニヒリズム。
いやぁ、と。
それから、この作品の、黒味を強調した画のトーンは、何度も書いてますけど、大好きです。
もう一つ、音が、なかなか個性的でした。ノイズみたいな効果音みたいな、そういう変な音が、心象音みたいな使われ方をしていて。それはちょっと参考になったかな。自分でやれるかどうかは、また別のハードルがあるんでしょうけど。
というワケで、なかなかの良作でした。
ショートカットのニコール・キッドマン、素晴らしいです。
今週の午後のロードショーは、N・キッドマン特集でした。
で、この作品。ちなみに原題は「Birth」。邦題の方が詩的でいい気がします。
10年前に突然死んでしまった恋人の“生まれ変わり”と自称する10歳の少年が目の前に現れ、結婚を控えたN・キッドマンがかつての愛の“記憶”に揺れ動く、と。
いい作品でした。
低予算な感じも好感。
基本的には室内劇で、舞台はニューヨークってことになってて、セントラル・パークとかが出てくるんですが、まぁそのくらいで、だいたいアパートメント(超高級の、です)の部屋とか、あとは1階のエントランスとか、そういうシチュエーションが多用されていて。
キューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」方式ですね。
で。
いきなり冒頭、モノクロかというぐらいのトーンの画で、グッと引きつけますよね。画の力で。
死んでしまうことになる男が、シルエットだけで登場して。とりあえず、冬の、積雪で真っ白なこのシーンのインパクトは、かなり大きいな、と。
あとは、カットの繋ぎの間。ぶつ切りみたいな感じで、妙なタイミングでつながれているんです。これが、なんか妙な感覚をずっと感じさせてて。
あとは、N・キッドマンの家族とその家の、やたら無機質な感じ。特に、そのアパートメントの、門衛がいるエントランスのショットは、印象的でした。
いろんな想像をこっちがしちゃうんですよねぇ。余計な想像を。
また、余計な想像が出来る時間的な間が多くて。
そういうのが、全部ミスリードとして生きてくる、という。
やっぱり、“生まれ変わり”というテーマだけに、ミステリアスな雰囲気が醸し出されると、そっちが気になってしょうがない、みたいなのもあるし。
だいたい、N・キッドマンの、非人間的な美しさ、というのも、ね。よく合ってますよ。
で。
実は、という部分が、個人的にはかなり好きです。イントロダクションの次のシークエンス、婚約披露パーティーでの、“奥さん”の挙動不審ぶりが、伏線として明かされて。
「あー、そうだったのか」と。
これ、よくよく考えると、そんなにたいした造りじゃないんだけどねぇ。伏線としては。そんなに凝ったアレじゃない。
だけど、俺は引っかかっちゃいましたよ。
ショートカットのN・キッドマンに見惚れちゃってただけ、というのもありますけど。(それはしょうがないっス。だって、美しすぎますから)
このストーリーはねぇ。
いいですよ。ホントに。
“裏切り”、ということですよね。
愛を裏切っていた過去。その過去を暴いて突きつけてやろうと思ってきたものの、怖くなって隠してしまう。
そして、少年が、「ボクは生まれ変わりだ」と言って現れる。
少年の、ある意味無邪気な現実逃避願望、というだけじゃない説得力が、この子役の存在感にはあって。
というより、演出サイドが、そういう風に撮ってる、ということかな。なんか物憂げな、悲しそうな表情を、冷たい、大理石に囲まれたエントランスという空間に置く、と。
そして、その少年の愛も“裏切り”であって。
それから、これは凄いと思ったんだけど、N・キッドマンがその後に、婚約者の仕事場に現れて、会議室でその男に告げる言葉。
なんだかんだで、すべて虚像なんだ、みたいな。
この痛烈すぎるメッセージ(と、俺は受け取りましたが)は、あまりに冷たすぎる。このニヒリズム。
いやぁ、と。
それから、この作品の、黒味を強調した画のトーンは、何度も書いてますけど、大好きです。
もう一つ、音が、なかなか個性的でした。ノイズみたいな効果音みたいな、そういう変な音が、心象音みたいな使われ方をしていて。それはちょっと参考になったかな。自分でやれるかどうかは、また別のハードルがあるんでしょうけど。
というワケで、なかなかの良作でした。
ショートカットのニコール・キッドマン、素晴らしいです。
2009年2月20日金曜日
「エリン・ブロコビッチ」を観る
スティーヴン・ソダーバーグ監督、ジュリア・ロバーツ主演の「エリン・ブロコビッチ」を観る。
まぁ、傑作なワケですけど、ソダーバーグ作品というよりは、完全にジュリアのための作品ですよね。
主演女優賞も総なめにしてるワケで。
ただ、大事なポイントは、マネーメイク・スターを使って“社会派”という作品を撮る、というトコですね。
同時期の「トラフィック」もそうですが。(「トラフィック」と比べると、この作品はかなりの低予算で作られているんですが、そこもポイント)
スターはただ1人、J・ロバーツのみ、と。
まぁ、言うまでもないことでもありますが。
で。
隠されたテーマとして「“女性”という性」がありますね。
赤毛の女性弁護士とやり合うシークエンスが象徴的なんですけど。
「子宮がん」や「乳がん」という言葉や、両親に寄り添っている闘病中の若い女の子を見るエリンの視線、だったり。
女性性を“封印”して、スーツを纏って戦う、ということでなく、まるでビッチみたいな格好をしたまま、そのメンタリティのまま、ガンガンいく、と。
同じ境遇の、ブルーカラーですらない“彼女たち”のために。
そう。大事なポイントは、ホワイトカラー対ブルーカラーという構図でなく、アッパークラス対底辺にいる女性たち、という構図なところ。
男顔負けに腕力でぶしていく、という運びにはならないワケですね。女性らしい「共感力」や、「女性としての魅力」を武器にしていく、という。
まぁ、だからこそJ・ロバーツなんですけどね。
とにかく、この主人公対他の女性たちとの対立構造は面白くって、デブの事務員を徹底的にこき下ろしたり、赤毛の女性弁護士に下ネタを言い放ったり、企業側の弁護士に「子宮の値段よ!」とタンカを切ったり。
この、企業側の弁護士とのシークエンスは凄くて、「あの井戸から汲んできた水よ」と。そして、そのグラスの水を飲めない弁護士たち。
このカタルシス!
それから、正義=カネ、という部分ですね。「カネじゃないんだ」みたいなジメジメした感じにならない。
賠償金(和解金)を手にする1番の近道である方法を、結局選ぶ。その為に、足を使って同意書のサインをもらっていく。
この辺の、キャラクターたちの現実主義と、映画としてリアリズムが重なっている部分が、説得力を生んで、作品を傑作に押し上げているんじゃないのかなぁ、と。
もちろん、それをJ・ロバーツが演じている、というのが前提ですけどね。
ベビーシッター化している自分に嫌気がさしてしまった男に対して、「初めて自分がみんななから認められている」という、この「承認」の物語。
ソダーバーグがこういうことを語らせるなんて、ちょっと意外だったりするんですけどね。
だけどまぁ、とても大事なセリフですよね。
社会の、一番底の部分、地べたを這いつくばりながら、そこから変えていく。そこから正義を立ち上げる。
つまり、10年近く経ったあとに撮る「チェ・ゲバラ2部作」と、かなり直接的に結びついている。
サンダンスが産んだ、ある種のカルト色をまとっていた若い天才が、20世紀最大のカリスマの姿を表現するようになる、その過程上にある作品なのだ、と。
ま、回りくどい言い回しをしてるだけですけど。
うん。「フェミニズム映画」としても素晴らしい、そしてジュリア・ロバーツ作品としても完璧な、そしてスティーヴン・ソダーバーグ作品としても見ごたえのある、そしてなにより、(恐らく)かなりの低予算で作られているという点にも注目しないといけない、傑作でした。
まぁ、傑作なワケですけど、ソダーバーグ作品というよりは、完全にジュリアのための作品ですよね。
主演女優賞も総なめにしてるワケで。
ただ、大事なポイントは、マネーメイク・スターを使って“社会派”という作品を撮る、というトコですね。
同時期の「トラフィック」もそうですが。(「トラフィック」と比べると、この作品はかなりの低予算で作られているんですが、そこもポイント)
スターはただ1人、J・ロバーツのみ、と。
まぁ、言うまでもないことでもありますが。
で。
隠されたテーマとして「“女性”という性」がありますね。
赤毛の女性弁護士とやり合うシークエンスが象徴的なんですけど。
「子宮がん」や「乳がん」という言葉や、両親に寄り添っている闘病中の若い女の子を見るエリンの視線、だったり。
女性性を“封印”して、スーツを纏って戦う、ということでなく、まるでビッチみたいな格好をしたまま、そのメンタリティのまま、ガンガンいく、と。
同じ境遇の、ブルーカラーですらない“彼女たち”のために。
そう。大事なポイントは、ホワイトカラー対ブルーカラーという構図でなく、アッパークラス対底辺にいる女性たち、という構図なところ。
男顔負けに腕力でぶしていく、という運びにはならないワケですね。女性らしい「共感力」や、「女性としての魅力」を武器にしていく、という。
まぁ、だからこそJ・ロバーツなんですけどね。
とにかく、この主人公対他の女性たちとの対立構造は面白くって、デブの事務員を徹底的にこき下ろしたり、赤毛の女性弁護士に下ネタを言い放ったり、企業側の弁護士に「子宮の値段よ!」とタンカを切ったり。
この、企業側の弁護士とのシークエンスは凄くて、「あの井戸から汲んできた水よ」と。そして、そのグラスの水を飲めない弁護士たち。
このカタルシス!
それから、正義=カネ、という部分ですね。「カネじゃないんだ」みたいなジメジメした感じにならない。
賠償金(和解金)を手にする1番の近道である方法を、結局選ぶ。その為に、足を使って同意書のサインをもらっていく。
この辺の、キャラクターたちの現実主義と、映画としてリアリズムが重なっている部分が、説得力を生んで、作品を傑作に押し上げているんじゃないのかなぁ、と。
もちろん、それをJ・ロバーツが演じている、というのが前提ですけどね。
ベビーシッター化している自分に嫌気がさしてしまった男に対して、「初めて自分がみんななから認められている」という、この「承認」の物語。
ソダーバーグがこういうことを語らせるなんて、ちょっと意外だったりするんですけどね。
だけどまぁ、とても大事なセリフですよね。
社会の、一番底の部分、地べたを這いつくばりながら、そこから変えていく。そこから正義を立ち上げる。
つまり、10年近く経ったあとに撮る「チェ・ゲバラ2部作」と、かなり直接的に結びついている。
サンダンスが産んだ、ある種のカルト色をまとっていた若い天才が、20世紀最大のカリスマの姿を表現するようになる、その過程上にある作品なのだ、と。
ま、回りくどい言い回しをしてるだけですけど。
うん。「フェミニズム映画」としても素晴らしい、そしてジュリア・ロバーツ作品としても完璧な、そしてスティーヴン・ソダーバーグ作品としても見ごたえのある、そしてなにより、(恐らく)かなりの低予算で作られているという点にも注目しないといけない、傑作でした。
2009年2月18日水曜日
「ベスト・フレンズ・ウェディング」を観る
ジュリア・ロバーツ特集の午後のロードショーで、キャメロン・ディアスが共演している「ベスト・フレンズ・ウェディング」を観る。
ま、ロマンティック・コメディの良作の一つと言っていいと思うんですよね。
J・ロバーツの魅力全開、という感じで。
とりあえず、冒頭の、ベッドルームで携帯電話(弁当箱みたいにデカい!)で“親友”の結婚を聞かされるシーンの、あの、ベッドじゃなくってベッドサイドの床にドカって倒れるシーンは、映画史に残る名シーンだと思ってるので。
そして「取り戻す」と気合全開で燃え上がってシカゴに向かって疾走するシークエンス。そしてその直後に、キャメロン・ディアスのキュートなキャラクターに気後れしちゃう、という流れ。
いいですよねぇ。
この作品は、まぁロマンチック・コメディーの常套なんですけど、周囲の配役がいい、と。キャメロン・ディアスがいなければこの作品は多分ここまで輝きを持たなかっただろうし、あと、もう1人の“親友”の、ゲイの男。
特にラストの、このゲイ野郎の煌きは凄まじい。テーブルで、左手をもぞもぞさせながら携帯で話すJ・ロバーツの、仕草と表情と、まぁ他の全部の可愛さも含めて、その一連のシークエンスは、かなり良いです。
映画館で観てたら、映画館を出ながら「あぁ、いい笑顔だったなぁ」と。そういう風に思わせてくれたんじゃないんでしょうか。
C・ディアスは、ホントにハマり役ですね。可愛くって超セレブなんだけど凄い健気で一生懸命の、ムカツクんだけど憎めない、という難しい役を、すげーちゃんと表現してて。
彼女のキャラクターがちゃんと立ってないと、J・ロバーツの半狂乱の暴走が成立しませんからね。
ディテールでは、シカゴの運河を行く遊覧船のシーンがあるんですね。(ちなみに、俺はこの遊覧船は乗ったことがあります)
で、運河を進んでいくんで、橋の下をくぐるんですが、それを利用して、遊覧船のデッキで主人公と相手役が話してるシーンで、昼間の明るい光⇒橋の下の影の中⇒昼間の明るい光、という風にワンカットの中で動いていくんです。
これが、いい。
橋の影の中に入ると、一気に暗くなって、真っ昼間の屋外でのシーンが、一瞬で「暗い密室の中」みたいになるんです。というより、そこでだけ「2人の距離が縮まる」という演出になってて。
観てて、やっぱりそこでフッと気持ちが入っちゃう、というか。
遊覧船の、ゆっくりとしたスピードも、また効果的だと思うんですけど。いい感じのスピードで。
その、すぐにまた日なたに出ちゃって、「あ、錯覚なんだな」みたいな。
この作品のテーマは「プライド」と「自分に正直になる」なんですね。
ずっと、プライドが邪魔をして、本当のことが打ち明けられない。ずっとゲイの男には「正直に打ち明けろ」と言われ続けて、ずっと言えないワケです。
そして最後に、ちゃんと打ち明けて、キャメロン・ディアスにも“敗北”を認め、そして2人を祝福する、と。
そもそも、キャメロン・ディアスのキャラクターに対抗心剥き出しになって暴走し始めるのも、プライドが動機だったりするので。「私のモノだったのに」という。「出会ったばかりの小娘に獲られてたまるか!」と。
こういうストーリーは、女性を中心に、かなり需要が強いんじゃないかなぁ、と。
ま、「草食系男子」なんて言葉が流行ってるしね。最近は。
まぁしかし、ジュリア・ロバーツはねぇ。
素敵ですよ。ホントに。
いい作品でした。
ま、ロマンティック・コメディの良作の一つと言っていいと思うんですよね。
J・ロバーツの魅力全開、という感じで。
とりあえず、冒頭の、ベッドルームで携帯電話(弁当箱みたいにデカい!)で“親友”の結婚を聞かされるシーンの、あの、ベッドじゃなくってベッドサイドの床にドカって倒れるシーンは、映画史に残る名シーンだと思ってるので。
そして「取り戻す」と気合全開で燃え上がってシカゴに向かって疾走するシークエンス。そしてその直後に、キャメロン・ディアスのキュートなキャラクターに気後れしちゃう、という流れ。
いいですよねぇ。
この作品は、まぁロマンチック・コメディーの常套なんですけど、周囲の配役がいい、と。キャメロン・ディアスがいなければこの作品は多分ここまで輝きを持たなかっただろうし、あと、もう1人の“親友”の、ゲイの男。
特にラストの、このゲイ野郎の煌きは凄まじい。テーブルで、左手をもぞもぞさせながら携帯で話すJ・ロバーツの、仕草と表情と、まぁ他の全部の可愛さも含めて、その一連のシークエンスは、かなり良いです。
映画館で観てたら、映画館を出ながら「あぁ、いい笑顔だったなぁ」と。そういう風に思わせてくれたんじゃないんでしょうか。
C・ディアスは、ホントにハマり役ですね。可愛くって超セレブなんだけど凄い健気で一生懸命の、ムカツクんだけど憎めない、という難しい役を、すげーちゃんと表現してて。
彼女のキャラクターがちゃんと立ってないと、J・ロバーツの半狂乱の暴走が成立しませんからね。
ディテールでは、シカゴの運河を行く遊覧船のシーンがあるんですね。(ちなみに、俺はこの遊覧船は乗ったことがあります)
で、運河を進んでいくんで、橋の下をくぐるんですが、それを利用して、遊覧船のデッキで主人公と相手役が話してるシーンで、昼間の明るい光⇒橋の下の影の中⇒昼間の明るい光、という風にワンカットの中で動いていくんです。
これが、いい。
橋の影の中に入ると、一気に暗くなって、真っ昼間の屋外でのシーンが、一瞬で「暗い密室の中」みたいになるんです。というより、そこでだけ「2人の距離が縮まる」という演出になってて。
観てて、やっぱりそこでフッと気持ちが入っちゃう、というか。
遊覧船の、ゆっくりとしたスピードも、また効果的だと思うんですけど。いい感じのスピードで。
その、すぐにまた日なたに出ちゃって、「あ、錯覚なんだな」みたいな。
この作品のテーマは「プライド」と「自分に正直になる」なんですね。
ずっと、プライドが邪魔をして、本当のことが打ち明けられない。ずっとゲイの男には「正直に打ち明けろ」と言われ続けて、ずっと言えないワケです。
そして最後に、ちゃんと打ち明けて、キャメロン・ディアスにも“敗北”を認め、そして2人を祝福する、と。
そもそも、キャメロン・ディアスのキャラクターに対抗心剥き出しになって暴走し始めるのも、プライドが動機だったりするので。「私のモノだったのに」という。「出会ったばかりの小娘に獲られてたまるか!」と。
こういうストーリーは、女性を中心に、かなり需要が強いんじゃないかなぁ、と。
ま、「草食系男子」なんて言葉が流行ってるしね。最近は。
まぁしかし、ジュリア・ロバーツはねぇ。
素敵ですよ。ホントに。
いい作品でした。
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