(iPhoneから書こうと思ってたんですが、上手くやれてませんでした…)
クリント・イーストウッド監督、アンジェリーナ・ジョリー主演の「チェンジリング」を観る。
タイトルのスペルは「changeling」ということで、“取り替え子”という意味のそういう言葉があるらしいですね。
チェンジリング。
まぁ、傑作ですよね。間違いなく。
シングルマザーが、誘拐事件と警察による偽装事件の2つの事件に遭う、という。
ストーリーの構造は、入れ子になってて、外枠に誘拐事件(正確には、大量誘拐殺人事件)があって、内枠に警察の腐敗によって騙され陥れられるストーリーがある、という形。
LAPDの腐敗っていうと、犯罪組織との繋がりだとか賄賂とか、というのが多く語られてきたと思うんですが、この作品では、なんつーか、もっとエグい、もっと救いのない、要するに人間的にダメなヤツら、という描写で。
この作品は実話を基にしているということなんで、この、警察組織の堕落っぷりっていうのは、マジなんでしょう。
ポイントは、“マスコミ”ですね。
まったく存在感がない。
これはもちろん意図的だと思うんですけど、正義の遂行者として役割も、埋もれた事実の発掘者としての役割も、あるいは単純に代弁者としての役割すらも与えられず、ただただ“権力”である警察のやることの片棒担ぎでしかなくって。
この、マスメディアをこういうポジションに置く、という構図は、この作品に“現代性”を与えているんじゃないかな、なんて。
“現代性”ってことでいうと、「働く女性」というA・ジョリーの役柄ですよね。父親が責任を放棄して逃げ出した、ということがセリフで語られるんだけど、なんつーか、そこへの怨み節みたいな演技はないワケです。
自立した女性。
電話交換手という職業は、恐らくですけど、当時では一番新しい産業の従事者、というか。要するに“進んでいる”人なワケですね。ローラースケートを履いた主任で、しかも昇進を打診される、という、仕事のできる人間。
しかし、警察や精神病院では、女性ゆえに(という描かれ方を実際にしている)半人前扱い、二級市民扱いをされてしまう、という。
「ミリオンダラー・ベイビー」で「闘う女性」を描いたクリント翁ですが、まぁ、地続きだよな、と。
画の感じも「ミリオンダラー・ベイビー」と良く似てて、黒味を強調した陰影のある画。
この作品の“黒さ”“暗さ”っていうのは、当時の街の実際の夜の暗さでもあるんで、ちょっと意味合いが違ってくる部分もあるんですが、これがとにかく効いています。
ただ、「ミリオンダラー・ベイビー」よりは、ちょっとだけ色調が押さえ気味でしたね。ちょっとだけ淡い感じで、画質もちょっと違う。
その辺は、CGとの親和性みたいなのとも関係してるのかもしれません。
入れ子の構造になってる、ということで、警察との戦いに勝利した(精神病棟から“救出”される)だけではストーリーは終わらず、ここが巧い所だと思ったんですけど、警察との戦い(ナントカ委員会)と、誘拐事件んの犯人との戦い(刑事裁判の公判)を、平行して描く、と。
これが、「まだ終わってない」という形になってて。
この組み立て方はかなりポイント高いです。
うっかりしたら、ここでカタルシスを感じちゃって、ちゃんちゃん、みたいになっちゃいますから。そうはさせない、ということで。(ただし、その分作品のトータルの時間は、長いです。2時間超えてる)
その後も諦めずに戦い続け、もう一つのクライマックスが、死刑執行と、その前夜の犯人との対面。
ここでの、必死に自制を保ちながら、しかし感情を剥き出しにしながら、犯人に真相を明らかにしろと迫るカットは、かなり迫力あります。
あと、凄いと思ったのは、その後の、別の被害者家族が再会を果たすシーンがあるんですね。
そこでのA・ジョリーの演技はかなり凄い。
再会の様子を、会話を部屋の外で聴いてるだけ、という演出も凄いなと思ったんですけど。
なんつーか、そういう、“母性”のすべての要素をすべて描き切ってると思うんですよ。
全部を演じ切ってる。
強さ、弱さ、脆さ、憎しみ、悲しみ、哀しみ、そして、美しさ。
戦い続ける強さ。
同時に、弱さ故に戦い続けてしまう、という哀しさ。
それから、もう1人、“共犯者”の少年役の存在感が素晴らしいよね。
この作品の特に核心部分になってる“誘拐犯”を巡るシークエンスのリアリティは、彼に寄りかかってる部分がかなり大きいんじゃないかな、と。
犯行を回想するシーンの、被害者を車に誘い込むカットと、もうひとつは、犯行を告白した刑事に命令されて死体を埋めた所を掘り返すカット。共犯を強いられてしまった彼の演技っていうのは、実際の被害者である主人公の息子の描写が殆どない(もちろんそれは意図的にで、再会できないままの主人公の喪失感を、ということだと思います)のもあって、犯行の悲劇性を高める効果があって。
ホントに、よく出来たシナリオだし、描き切る監督の手腕、演じきるA・ジョリーの演技力、どれも素晴らし、と。
そういう作品だと思いました。
うん。
傑作。
ただし、俺みたいに「闇の子供たち」と一緒には観ない方がいいです。
気分的に、ホントに沈鬱になり過ぎちゃって、ヤバいんで。
2009年11月5日木曜日
2009年11月4日水曜日
「闇の子供たち」を観る
阪本順冶監督の超問題作、「闇の子供たち」を観る。
いや~。どこから書いていいのやら…。
まず…。
ストーリーの構造としては、幾つかのプロットがあって、それがなんとなく絡み合いながら話しが進んでいく、という形。
ストーリーの大部分はタイで進むんですが、途中舞台が日本に移ってくるシークエンスもあって。
面白いのは、画のパワーが、日本の、日本人の役者陣の演技に頼れる所ではちょっと落ちる、というところ。
タイ人の子供を撮っているカットなんかは、構図もキレキレで、どれも気迫が伝わってくるカットなんですけど。
やっぱりそれは、セリフの巧さとか演技の巧さに寄りかかれないから「画」で勝負するしかない、という演出上のアレなんだろうな、と。
佐藤浩市の出てくるカットも、長回しでワンカットで撮ったりしてるんですが、いまいちピンとこなかったりして。「ここは別に普通に撮っても良かったんでわ?」みたいな。
まぁ、名優ぞろいだとは思うんです。
だけど、例えば「こと」を終えたあとにずっと唾を吐き出すショットとか、マジでやばい。
そこにはセリフもなくって、演出も「唾を吐き出してて」ってぐらいだと思うんです。そういうショットが生み出す破壊力。
基本的に、そういう「画の力」によって支えられている作品だと言い切ってもいいんじゃないなぁ、と。
ゴミ収集車に運ばれている黒いビニール袋を映したショットとか、マジで危険ですよ。ほんとに。
「グエッ…、この中にいるってことかよ…」っていうショットですから。
冒頭、国境の街で、子供たちの腕を大人たちがずっと掴んでるんですね。手を繋いでるんじゃなくって、逃げないように腕を掴まえている。
そういう、ひとつひとつのカットの意味が重すぎます。ホントに。
一生懸命作り笑いを作ろうとして、でも痛くて(肉体的にも、精神的にも)涙が出てくるんだけど、でも必死に口角をあげて作り笑いをしようとする男の子。
その「作り笑い」は、実は結構キーになってて、「裏切り者」も登場する最初のショットで「裏切り」が暗示されちゃっている、という。
そんなんありかよ、と。
タイトルの「闇の子供たち」ですけど、これって、「闇の中に隠された子供」とか「闇の中にいる子供」「闇の中に放り込まれた子供」という意味じゃなく、なんつーか、「闇」が生んだ子供たち、という意味だよね。
子供っていうのは必ず「親」がいるワケだけど、「親」、つまり「人間」が「闇」なんだ、と。
「人間」というより、「大人の世界」が「闇」なんだ、と。
大きな大木(ガジュマルの樹?)や、ラストの川の中で戯れる子供の姿、というのは、「自然に抱かれている」という状態、つまり、「大人たち」の手の届かないところ、「大人たち」に汚される、犯される前の状態、ということですね。「無垢な」とか「自然な」とか、そんな意味。
ラストまで、ずっと、江口洋介や同僚たちの「職業意識」が動機の梃子になっている、というトコにひっかかりを感じてたんですね。
それって、なんつーか、自分たちが生きる日本の社会との「地続き」感が薄まってないか、という気がしてたんで。
そうじゃなくって、「ひとりの人間としての良心」を動機にした方がいいんじゃないか、とか、“大手マスコミ”が“正義”を代弁するっていう形はちょっと現代性がないかな、とか。
それは監督の意図する所じゃないんじゃないのかなぁ、とか。
その「個人的な正義感」を司るために置かれているはずの宮崎あおいの役は、いわゆる、結構曖昧な「人間的な感性」というか、「自分の善なる部分が反応している不快感」みたいなのに立脚しているんですけど、なんつーか、彼女はずっと「未熟で~」という描かれ方、つまりややネガティヴな描かれ方をしていて。
いかにもなタイプキャストでステレオタイプなキャラクターだし。
そこには感情移入をさせない、ということを敢えてしている。
それは、同じく「自分探し」的なプロットを付加されている妻夫木聡が演じるキャラクターもそうなんですけど。
そこもずっと引っかかってたんです。人間が作った「暗闇」を描くのに、なんで「自分探し」のプロットに引きずられないといけないんだ、と。
が、最後の最後、ズバっと、ね。
やられましたよね。
シリアルキラーの記事の中に映る自分の顔。
「つまり同類なんだ」というメタファー。
この、後味が「苦い」方向に振り切るカタルシス。思わず「グエッ!」って声が漏れそうな結末。
こんなんアリか、と。
例えばさ。
これがキリスト教の文化圏なんかで作られてたら、終話の前に「懺悔」して終わる、とか、そういうストーリーの運びになったりしたと思うんです。
悔い改めて、神に赦しを乞い、赦され、一生をかけてその罪を償う、とか、そういう結末になったと思うんです。
しかーし!
主人公が自分の内面に抱えていた、なおかつ、本人はそのことを完全に自覚していた、という“闇”。
「ここは天国だから」というセリフの意味が、エンドロールの間にガツンときちゃう、という、この不快感!
「七つの大罪」がテーマだった「セブン」よりもエグい終わり方ですから!
グエッ!
う~ん。
感想を書きながら暗鬱な気持ちになってきました。
実は、この作品と一緒に借りてきたのが、なんと「チェンジリング」。
併せて観ちゃいけない作品でした。
結論としては、阪本監督の傑作、だと思います。
気迫と凄み。
グエェ…
いや~。どこから書いていいのやら…。
まず…。
ストーリーの構造としては、幾つかのプロットがあって、それがなんとなく絡み合いながら話しが進んでいく、という形。
ストーリーの大部分はタイで進むんですが、途中舞台が日本に移ってくるシークエンスもあって。
面白いのは、画のパワーが、日本の、日本人の役者陣の演技に頼れる所ではちょっと落ちる、というところ。
タイ人の子供を撮っているカットなんかは、構図もキレキレで、どれも気迫が伝わってくるカットなんですけど。
やっぱりそれは、セリフの巧さとか演技の巧さに寄りかかれないから「画」で勝負するしかない、という演出上のアレなんだろうな、と。
佐藤浩市の出てくるカットも、長回しでワンカットで撮ったりしてるんですが、いまいちピンとこなかったりして。「ここは別に普通に撮っても良かったんでわ?」みたいな。
まぁ、名優ぞろいだとは思うんです。
だけど、例えば「こと」を終えたあとにずっと唾を吐き出すショットとか、マジでやばい。
そこにはセリフもなくって、演出も「唾を吐き出してて」ってぐらいだと思うんです。そういうショットが生み出す破壊力。
基本的に、そういう「画の力」によって支えられている作品だと言い切ってもいいんじゃないなぁ、と。
ゴミ収集車に運ばれている黒いビニール袋を映したショットとか、マジで危険ですよ。ほんとに。
「グエッ…、この中にいるってことかよ…」っていうショットですから。
冒頭、国境の街で、子供たちの腕を大人たちがずっと掴んでるんですね。手を繋いでるんじゃなくって、逃げないように腕を掴まえている。
そういう、ひとつひとつのカットの意味が重すぎます。ホントに。
一生懸命作り笑いを作ろうとして、でも痛くて(肉体的にも、精神的にも)涙が出てくるんだけど、でも必死に口角をあげて作り笑いをしようとする男の子。
その「作り笑い」は、実は結構キーになってて、「裏切り者」も登場する最初のショットで「裏切り」が暗示されちゃっている、という。
そんなんありかよ、と。
タイトルの「闇の子供たち」ですけど、これって、「闇の中に隠された子供」とか「闇の中にいる子供」「闇の中に放り込まれた子供」という意味じゃなく、なんつーか、「闇」が生んだ子供たち、という意味だよね。
子供っていうのは必ず「親」がいるワケだけど、「親」、つまり「人間」が「闇」なんだ、と。
「人間」というより、「大人の世界」が「闇」なんだ、と。
大きな大木(ガジュマルの樹?)や、ラストの川の中で戯れる子供の姿、というのは、「自然に抱かれている」という状態、つまり、「大人たち」の手の届かないところ、「大人たち」に汚される、犯される前の状態、ということですね。「無垢な」とか「自然な」とか、そんな意味。
ラストまで、ずっと、江口洋介や同僚たちの「職業意識」が動機の梃子になっている、というトコにひっかかりを感じてたんですね。
それって、なんつーか、自分たちが生きる日本の社会との「地続き」感が薄まってないか、という気がしてたんで。
そうじゃなくって、「ひとりの人間としての良心」を動機にした方がいいんじゃないか、とか、“大手マスコミ”が“正義”を代弁するっていう形はちょっと現代性がないかな、とか。
それは監督の意図する所じゃないんじゃないのかなぁ、とか。
その「個人的な正義感」を司るために置かれているはずの宮崎あおいの役は、いわゆる、結構曖昧な「人間的な感性」というか、「自分の善なる部分が反応している不快感」みたいなのに立脚しているんですけど、なんつーか、彼女はずっと「未熟で~」という描かれ方、つまりややネガティヴな描かれ方をしていて。
いかにもなタイプキャストでステレオタイプなキャラクターだし。
そこには感情移入をさせない、ということを敢えてしている。
それは、同じく「自分探し」的なプロットを付加されている妻夫木聡が演じるキャラクターもそうなんですけど。
そこもずっと引っかかってたんです。人間が作った「暗闇」を描くのに、なんで「自分探し」のプロットに引きずられないといけないんだ、と。
が、最後の最後、ズバっと、ね。
やられましたよね。
シリアルキラーの記事の中に映る自分の顔。
「つまり同類なんだ」というメタファー。
この、後味が「苦い」方向に振り切るカタルシス。思わず「グエッ!」って声が漏れそうな結末。
こんなんアリか、と。
例えばさ。
これがキリスト教の文化圏なんかで作られてたら、終話の前に「懺悔」して終わる、とか、そういうストーリーの運びになったりしたと思うんです。
悔い改めて、神に赦しを乞い、赦され、一生をかけてその罪を償う、とか、そういう結末になったと思うんです。
しかーし!
主人公が自分の内面に抱えていた、なおかつ、本人はそのことを完全に自覚していた、という“闇”。
「ここは天国だから」というセリフの意味が、エンドロールの間にガツンときちゃう、という、この不快感!
「七つの大罪」がテーマだった「セブン」よりもエグい終わり方ですから!
グエッ!
う~ん。
感想を書きながら暗鬱な気持ちになってきました。
実は、この作品と一緒に借りてきたのが、なんと「チェンジリング」。
併せて観ちゃいけない作品でした。
結論としては、阪本監督の傑作、だと思います。
気迫と凄み。
グエェ…
2009年11月1日日曜日
「バンク・ジョブ」を観る
ロンドンが舞台の、実話を基にしたという「バンク・ジョブ」を観る。
う~ん。
面白かった。いい作品でした。
上手く言えないんだけど、こじんまりまとまった、というか、無理をしないでやれることをキッチリやる、という製作ポリシーを感じて、そこも好印象。
ストーリーは、政治的な思惑から、情報機関「MI-5」(ちなみに、ジェームス・ボンドが所属しているのはMI-6)がある銀行を襲撃する計画を立て、それに乗っかってしまった男たちが、色々ありながら最終的に…、というもの。
まず、銀行襲撃を決行するにいたる前段階の説明を、冒頭でかなりテンポ良く進めていって、そこがちょっと分かりにくいんだけど、まぁ、なんせ実話なんで、そこはしょうがないっスね。
もちろん、全部がちゃんと一つに収まるようになってるんで、全然いいんですけど。
面白いのが、“襲撃”を成功させた後に色々展開がある、という部分。
「やった! 逃げろ!」で終わるんじゃなくって、むしろその後の方が面白かったりして。
この部分の話の造りはなにげに面白い。
実行犯たち、MI-5、警察署の腐敗警官と彼らを買収して“子飼い”にしているポルノ王、という三つ巴の抗争が、と。
そこに、主人公の男の、生活感や、人生との格闘に敗れかけているという“動機”、美人な奥さんと“仕事”の話を持ってきた女との微妙な関係、とか、その辺の、ちゃんと丁寧に描かれた「人間ドラマ」が挿し込まれていく、ということで。
主人公の俳優さんが、またいいんだよねぇ。ジェイソン・ステイサム。
役の、奥さんや娘を思う“普通の人間”の哀愁と、襲撃を成功させるカリスマ性とか、意外に頭も切れたりするというキャラクターが、この俳優さんだとちゃんと成立してる、というか。
別に演技がどうこうってことじゃないんだよね。存在感がいい、という。
「スナッチ」での役よりも、もっと奥行きのあるキャラクター、という感じで、ちゃんとそれを演じきってます。
ディテールとしては、モダンな画がまず印象的。デジタル機材を使うとこういう画になるのかなぁ。
最近の、特にイギリス映画では、こういうシャープな画が多いので、もうこれが一般的ってことなんでしょうか。
まぁ、ひょっとしたら、イギリス特有の、光量自体が少ない土地柄というのも関係してるのかもしれませんが。
で、時代感を表現するため(設定は、70年代)の街路や建物やモブシーンは殆ど作らず、基本的にはセットの中でのカットで話を進めていく、と。
狭いアングルのショットを多用してるのもそうだし、とにかく余計なことはしない、ということですね。銀行襲撃の話なのに、あまり銀行らしいショットが出てこなかったりするワケです。襲撃のターゲットは地下の貸し金庫なんですが、要するに、必要なそこ貸し金庫しか撮らない、という。
アクションシーンも最低限に抑えているという印象。もちろんガンアクションもなし。
それでいて、ラストの駅のホームでのシーンなんかも緊迫感をしっかり出すことに成功してるし、巧いなぁ、と。(地下鉄のホームでのショットなんかも、凄い上手)
しかも、ゴチャゴチャするカットは、ホームから、駅の裏手という“安上がり”な場所にちゃんと移動して撮ってるんですね。
その辺も、巧いと思います。
なんか、ちゃんとカタルシスもあるしね。
うん。
いい作品でした。
う~ん。
面白かった。いい作品でした。
上手く言えないんだけど、こじんまりまとまった、というか、無理をしないでやれることをキッチリやる、という製作ポリシーを感じて、そこも好印象。
ストーリーは、政治的な思惑から、情報機関「MI-5」(ちなみに、ジェームス・ボンドが所属しているのはMI-6)がある銀行を襲撃する計画を立て、それに乗っかってしまった男たちが、色々ありながら最終的に…、というもの。
まず、銀行襲撃を決行するにいたる前段階の説明を、冒頭でかなりテンポ良く進めていって、そこがちょっと分かりにくいんだけど、まぁ、なんせ実話なんで、そこはしょうがないっスね。
もちろん、全部がちゃんと一つに収まるようになってるんで、全然いいんですけど。
面白いのが、“襲撃”を成功させた後に色々展開がある、という部分。
「やった! 逃げろ!」で終わるんじゃなくって、むしろその後の方が面白かったりして。
この部分の話の造りはなにげに面白い。
実行犯たち、MI-5、警察署の腐敗警官と彼らを買収して“子飼い”にしているポルノ王、という三つ巴の抗争が、と。
そこに、主人公の男の、生活感や、人生との格闘に敗れかけているという“動機”、美人な奥さんと“仕事”の話を持ってきた女との微妙な関係、とか、その辺の、ちゃんと丁寧に描かれた「人間ドラマ」が挿し込まれていく、ということで。
主人公の俳優さんが、またいいんだよねぇ。ジェイソン・ステイサム。
役の、奥さんや娘を思う“普通の人間”の哀愁と、襲撃を成功させるカリスマ性とか、意外に頭も切れたりするというキャラクターが、この俳優さんだとちゃんと成立してる、というか。
別に演技がどうこうってことじゃないんだよね。存在感がいい、という。
「スナッチ」での役よりも、もっと奥行きのあるキャラクター、という感じで、ちゃんとそれを演じきってます。
ディテールとしては、モダンな画がまず印象的。デジタル機材を使うとこういう画になるのかなぁ。
最近の、特にイギリス映画では、こういうシャープな画が多いので、もうこれが一般的ってことなんでしょうか。
まぁ、ひょっとしたら、イギリス特有の、光量自体が少ない土地柄というのも関係してるのかもしれませんが。
で、時代感を表現するため(設定は、70年代)の街路や建物やモブシーンは殆ど作らず、基本的にはセットの中でのカットで話を進めていく、と。
狭いアングルのショットを多用してるのもそうだし、とにかく余計なことはしない、ということですね。銀行襲撃の話なのに、あまり銀行らしいショットが出てこなかったりするワケです。襲撃のターゲットは地下の貸し金庫なんですが、要するに、必要なそこ貸し金庫しか撮らない、という。
アクションシーンも最低限に抑えているという印象。もちろんガンアクションもなし。
それでいて、ラストの駅のホームでのシーンなんかも緊迫感をしっかり出すことに成功してるし、巧いなぁ、と。(地下鉄のホームでのショットなんかも、凄い上手)
しかも、ゴチャゴチャするカットは、ホームから、駅の裏手という“安上がり”な場所にちゃんと移動して撮ってるんですね。
その辺も、巧いと思います。
なんか、ちゃんとカタルシスもあるしね。
うん。
いい作品でした。
2009年10月31日土曜日
赤川次郎、井上ひさし、小林多喜二、そしてサルトル
赤川次郎さんが新聞に連載しているコラムで、井上ひさしさんの、「蟹工船」の小林多喜二を描いた舞台「組曲虐殺」を観ての感想を書いてまして。
まぁ、サルトルにしか言えない言葉でもあるんですけどね。
それから、現在の“闘争の場”はまさに“内面化”されているからだ、という言い方もあるとは思うんですが。
ただし「命がけで書くというその覚悟が鍛えたのだ」と。
この言葉は大きいですよね。
占領下ほど自由だったことはなかった。
う~ん。
凄い。
多喜二役の井上芳雄のファンなのか、若い観客も多かったが、多喜二が生き、そして虐殺された時代の空気をどう受け止めたのか、訊いてみたい気がする。
フランスの哲学者サルトルが、第二次世界大戦時のドイツ占領下ほど、自分が自由だったことはなかったと言っていたことがある。占領下では、自分の書く一つ一つの言葉が生命の安全を脅かしかねなかった。
「命がけで書く」というその覚悟がサルトルを鍛えたのだ。
今は権力を批判しても拷問され殺されることはないが、そうなると、むしろ現実から目を背け、内にこもってしまう書き手が多いようなのはどうしてだろう。
まぁ、サルトルにしか言えない言葉でもあるんですけどね。
それから、現在の“闘争の場”はまさに“内面化”されているからだ、という言い方もあるとは思うんですが。
ただし「命がけで書くというその覚悟が鍛えたのだ」と。
この言葉は大きいですよね。
占領下ほど自由だったことはなかった。
う~ん。
凄い。
2009年10月29日木曜日
「さらば愛しき女よ」を観る
午後のロードショーで、ロバート・ミッチャム主演の「さらば愛しき女よ」を観る。
う~ん。
まぁ、今さら俺が感想書いてもな、というクラシックですが、個人的には、実はチャンドラー作品はまったく手に取ったことがなかったりして、この作品も初めてなんで、そういう意味では新鮮だったかも。
具体的には、主人公のフィリップ・マーロウのモノローグでストーリーが(中盤まで)語られている、というのが結構新鮮だった。
最近だと、あんまりこういうのってないんじゃないですか?
画の質感は、だいたい同じ頃に作られた「刑事コジャック」(これはテレビシリーズだけど)とソックリって感じで、「コジャック」は個人的に大好きなんですけど、それをちょっと思い出したかな(S・スタローンが出てるっていうのもあるけどね)。
ま、この作品と「コジャック」じゃ、描かれている時代は全然違うんで、ホントは似てないハズなんですけど、なんつーか、視線の低さとか、そういうトコがね。
作中、ずっとジョー・ディマジオの活躍が語られるんですけど、その中で、「ディマジオは子供たちの歓声を受けるんだろうが、子供の泣き声は聞こえないだろう」みたいなセリフ(モノローグ)があるんですね。
これは良かった。
その(父親が死んでしまって)“泣いている子供”のために命を張るんだ、という主人公。
でも、ロバート・ミッチャムにはあんまりフィットしてない役のような気もするんだよねぇ。生意気なこと言っちゃうとね。
ま、いいんですけどね。
チャンドラーか…。
フィリップ・マーロー。
読んでみよっかなぁ。
う~ん。
まぁ、今さら俺が感想書いてもな、というクラシックですが、個人的には、実はチャンドラー作品はまったく手に取ったことがなかったりして、この作品も初めてなんで、そういう意味では新鮮だったかも。
具体的には、主人公のフィリップ・マーロウのモノローグでストーリーが(中盤まで)語られている、というのが結構新鮮だった。
最近だと、あんまりこういうのってないんじゃないですか?
画の質感は、だいたい同じ頃に作られた「刑事コジャック」(これはテレビシリーズだけど)とソックリって感じで、「コジャック」は個人的に大好きなんですけど、それをちょっと思い出したかな(S・スタローンが出てるっていうのもあるけどね)。
ま、この作品と「コジャック」じゃ、描かれている時代は全然違うんで、ホントは似てないハズなんですけど、なんつーか、視線の低さとか、そういうトコがね。
作中、ずっとジョー・ディマジオの活躍が語られるんですけど、その中で、「ディマジオは子供たちの歓声を受けるんだろうが、子供の泣き声は聞こえないだろう」みたいなセリフ(モノローグ)があるんですね。
これは良かった。
その(父親が死んでしまって)“泣いている子供”のために命を張るんだ、という主人公。
でも、ロバート・ミッチャムにはあんまりフィットしてない役のような気もするんだよねぇ。生意気なこと言っちゃうとね。
ま、いいんですけどね。
チャンドラーか…。
フィリップ・マーロー。
読んでみよっかなぁ。
2009年10月21日水曜日
「コンフェッション」を観た
というワケで、今日は今週の映画天国で観た「コンフェッション」の感想です。
ジョージ・クルーニーの監督デビュー作、ということで。
“コンフェッション”って、「告白」って意味らしいですね。知らなかった…。
題名の通り、主人公の男が自分の人生を「告白」していく、というストーリー。
で、告白されるストーリーが一筋縄でいかない(ま、だからこそ映画になるんだけど)、ということで、なんだかよく分からないまま話がどんどん進んでいく感じになってます。
個人的には特に前半の、なんだか“軽薄なコメディタッチのなんか”みたいな雰囲気が全然ダメで、惹き込まれるようになったのはホントに中盤以降ですね。
主人公が、自分の内面の“精神的な均衡”と保つために暗殺(つまり、合法的な殺人)を自ら欲するようになる、というあたりから。
その辺で、前半の、軽薄な、どこか浮ついたタッチで人生を描写する、という部分の意図が分かった、というか。
つまり、主人公の感覚がそうだった、ということですね。
自分が生きる人生や生活に「現実感」が欠如していた、という、そういう人物描写のための手段だった、と。
書割りのように表現される部分も、主人公の自己認識では、なにかの舞台の上で「自分という役柄」を演じさせられているだけ、みたいな感覚だった、と。
ここで、腑に落ちる、というか、しっくりきた、という感じで。
で、主人公がテレビ業界で成功するにつれて、その“浮ついた感”“非現実感”は、そのままテレビ業界における生活、という部分に、つまり主人公にとっては「日常という現実」にトレースされてきてしまう。
そして“現実化してしまった非現実感”に、耐えられない。
そこで、精神的なバランスを取るために、まごうことなき現実である“殺人”という現場に自ら赴く。
面白いのは、“殺人”の現場においても、“殺人者”という“自ら生み出したキャラクター”をまとう、という形で振る舞うんですね。主人公は。
帽子をハスに被り、黒いコートを着て、ミステリアスな女を抱く。
まるでひとつの“ゲーム”であるかのように、つまりそこでも“非現実感”に包まれている。
で。
ある局面で、東側に捕らえられるという体験をし、そこでの諸々を経て、“現実”に引き戻される。
というより、初めて現実に直面する、というか。
ドリュー・バリモア演じる彼女との結婚も避けてきた主人公が(それは、はっきりとは語られないんだけど、主人公の現実逃避のひとつだという描写でしょう)、ついに自分の命の危機を感じるに至って、自分がその時にいる“現実”を知る、と。
その後の、精神的に破綻しかけた主人公が、裸でテレビの前に立っている、という姿で描写されるんですが、これは多分、そこでは主人公は“裸の自分”というのを把握しているのだ、ということだと思うんですね。
今まで身にまとっていた“衣”をすべて脱ぎ捨てて、という。スパイでもなく、テレビ局のやり手プロデューサーでもなく、裸の自分。
ここで、最近の潮流としては「裸の自分なんていうのも虚像なんだ」というトコに落とし込んだりするワケですが、この作品では、そこまでは行きません。(というのが俺の解釈)
最後のヤマとして、裏切り者とのサスペンスタッチの対決を描いて、なんつーか、多分これが“落とし前”ということだと思うんだけど、最後は老人となった主人公の言葉で〆る、と。
ま、話の流れを追ってしまうと、こんな感じ。
ディテールとしては、ソダーバーグの「トラフィック」スタイルで、シークエンスごとに色のタッチを変えて、ということをしてますね。
過去のマンハッタンのテレビ局では光を飛ばしてパステルな感じ、中南米(多分メキシコだと思うんだけど)での初めての暗殺のシークエンスでは光量を多くしたザラザラしたタッチ、東ベルリンや東欧での暗殺のシークエンスでは黒味を強調したサスペンスタッチ、という感じで。LAでのテレビ局での生活、ニューヨークでの安ホテルでの隠匿生活、など、場面ごとに、ワリとあからさまにそういうことをやってる。
ま、個人的にはそういうのは凄い好きなんですけど(自分でもこういうのはやってみたい)、こういうのを安易って言う人もいるかもしれませんね。
いいと思うんですけどね。映画表現のひとつの進化だと思うんで。
あ、それから、なんつーか、ハリウッドにおける“派閥”じゃないけど、そういうのが垣間見えるのもこの作品のアレかも。
ジョージ・クルーニー一派、というか。
ソダーバーグとコーエン兄弟の作品には、G・クルーニーを初めとした、ワリと決まったメンツが出てますよね。
ブラピもそうだし、ジュリア・ロバーツもそうだし。
ちなみに、先週の「バーバー」の主演のビリー・ボブ・ソーントンは、アンジェリーナ・ジョリーの元旦那ですけど、もちろんA・ジョリーの今の旦那はブラピだからね。
あと、やっぱりジョージ・クルーニ―のこの後、ですかね。
この後に「シリアナ」という大作の製作・主演や「グッドナイト&グッドラック」の製作・監督・主演という見事な仕事をして、その後は「フィクサー」をソダーバーグと一緒に製作して。
ちなみに、これは知らなかったんですが、「ジャケット」という作品の製作もしてるんですね。この「ジャケット」という作品は、結構面白かった。
というワケで。
なんつーか、観る人を選ぶ作品ではありますよね。
普通に観たら、それこそ単なる“告白”で終わっちゃう、というか、「こういう人が居ました」で終わっちゃう作品だと思うんで。「CIAって凄いな」とか。
まぁ、そういう作品だって言えばその通りなんですが、もうちょっと深みや奥行きもありますよ、と。
そんな感じでした。
ジョージ・クルーニーの監督デビュー作、ということで。
“コンフェッション”って、「告白」って意味らしいですね。知らなかった…。
題名の通り、主人公の男が自分の人生を「告白」していく、というストーリー。
で、告白されるストーリーが一筋縄でいかない(ま、だからこそ映画になるんだけど)、ということで、なんだかよく分からないまま話がどんどん進んでいく感じになってます。
個人的には特に前半の、なんだか“軽薄なコメディタッチのなんか”みたいな雰囲気が全然ダメで、惹き込まれるようになったのはホントに中盤以降ですね。
主人公が、自分の内面の“精神的な均衡”と保つために暗殺(つまり、合法的な殺人)を自ら欲するようになる、というあたりから。
その辺で、前半の、軽薄な、どこか浮ついたタッチで人生を描写する、という部分の意図が分かった、というか。
つまり、主人公の感覚がそうだった、ということですね。
自分が生きる人生や生活に「現実感」が欠如していた、という、そういう人物描写のための手段だった、と。
書割りのように表現される部分も、主人公の自己認識では、なにかの舞台の上で「自分という役柄」を演じさせられているだけ、みたいな感覚だった、と。
ここで、腑に落ちる、というか、しっくりきた、という感じで。
で、主人公がテレビ業界で成功するにつれて、その“浮ついた感”“非現実感”は、そのままテレビ業界における生活、という部分に、つまり主人公にとっては「日常という現実」にトレースされてきてしまう。
そして“現実化してしまった非現実感”に、耐えられない。
そこで、精神的なバランスを取るために、まごうことなき現実である“殺人”という現場に自ら赴く。
面白いのは、“殺人”の現場においても、“殺人者”という“自ら生み出したキャラクター”をまとう、という形で振る舞うんですね。主人公は。
帽子をハスに被り、黒いコートを着て、ミステリアスな女を抱く。
まるでひとつの“ゲーム”であるかのように、つまりそこでも“非現実感”に包まれている。
で。
ある局面で、東側に捕らえられるという体験をし、そこでの諸々を経て、“現実”に引き戻される。
というより、初めて現実に直面する、というか。
ドリュー・バリモア演じる彼女との結婚も避けてきた主人公が(それは、はっきりとは語られないんだけど、主人公の現実逃避のひとつだという描写でしょう)、ついに自分の命の危機を感じるに至って、自分がその時にいる“現実”を知る、と。
その後の、精神的に破綻しかけた主人公が、裸でテレビの前に立っている、という姿で描写されるんですが、これは多分、そこでは主人公は“裸の自分”というのを把握しているのだ、ということだと思うんですね。
今まで身にまとっていた“衣”をすべて脱ぎ捨てて、という。スパイでもなく、テレビ局のやり手プロデューサーでもなく、裸の自分。
ここで、最近の潮流としては「裸の自分なんていうのも虚像なんだ」というトコに落とし込んだりするワケですが、この作品では、そこまでは行きません。(というのが俺の解釈)
最後のヤマとして、裏切り者とのサスペンスタッチの対決を描いて、なんつーか、多分これが“落とし前”ということだと思うんだけど、最後は老人となった主人公の言葉で〆る、と。
ま、話の流れを追ってしまうと、こんな感じ。
ディテールとしては、ソダーバーグの「トラフィック」スタイルで、シークエンスごとに色のタッチを変えて、ということをしてますね。
過去のマンハッタンのテレビ局では光を飛ばしてパステルな感じ、中南米(多分メキシコだと思うんだけど)での初めての暗殺のシークエンスでは光量を多くしたザラザラしたタッチ、東ベルリンや東欧での暗殺のシークエンスでは黒味を強調したサスペンスタッチ、という感じで。LAでのテレビ局での生活、ニューヨークでの安ホテルでの隠匿生活、など、場面ごとに、ワリとあからさまにそういうことをやってる。
ま、個人的にはそういうのは凄い好きなんですけど(自分でもこういうのはやってみたい)、こういうのを安易って言う人もいるかもしれませんね。
いいと思うんですけどね。映画表現のひとつの進化だと思うんで。
あ、それから、なんつーか、ハリウッドにおける“派閥”じゃないけど、そういうのが垣間見えるのもこの作品のアレかも。
ジョージ・クルーニー一派、というか。
ソダーバーグとコーエン兄弟の作品には、G・クルーニーを初めとした、ワリと決まったメンツが出てますよね。
ブラピもそうだし、ジュリア・ロバーツもそうだし。
ちなみに、先週の「バーバー」の主演のビリー・ボブ・ソーントンは、アンジェリーナ・ジョリーの元旦那ですけど、もちろんA・ジョリーの今の旦那はブラピだからね。
あと、やっぱりジョージ・クルーニ―のこの後、ですかね。
この後に「シリアナ」という大作の製作・主演や「グッドナイト&グッドラック」の製作・監督・主演という見事な仕事をして、その後は「フィクサー」をソダーバーグと一緒に製作して。
ちなみに、これは知らなかったんですが、「ジャケット」という作品の製作もしてるんですね。この「ジャケット」という作品は、結構面白かった。
というワケで。
なんつーか、観る人を選ぶ作品ではありますよね。
普通に観たら、それこそ単なる“告白”で終わっちゃう、というか、「こういう人が居ました」で終わっちゃう作品だと思うんで。「CIAって凄いな」とか。
まぁ、そういう作品だって言えばその通りなんですが、もうちょっと深みや奥行きもありますよ、と。
そんな感じでした。
2009年10月20日火曜日
「バーバー」を観た
先週の「映画天国」(月曜映画の後釜です)で観た、コーエン兄弟の「バーバー」の感想です。
というか、久しぶりにレビューを書くんで、正直、なんだか書き方を忘れてしまった感じでして…。
コーエン兄弟。
「オー・ブラザー!」の後に作られた作品なんですねぇ。
う~ん。
面白いっちゃ面白いんですけど…。
まず、最初の印象は、なんといっても「モノクロ」である、というトコ。
「モノクロとは単に色がないというだけじゃない。もっとスペシャルなものなんだ」みたいなことを言っていたのは、フランスの天才マシュー・カソヴィッツですが、まぁ、コーエン兄弟にとってもチャレンジだってことなんでしょうかねぇ。
コーエン兄弟って、やっぱり、巧みにコントロールされた色彩感が特徴のひとつにあると思うんですよね。ロケーションや服やライトのチョイスってだけでなく、作品ごとに、全編にわたってちゃんと計算された色使い、というのが。
そういうのがこの作品にはないので。もちろん、そういう色彩感のひとつとしてモノクロが選択された、ということだとは思うんですが、なんつーか、別にねぇ、という。
この時代に、コーエン兄弟みたいなポジションの人たちが敢えてモノクロを導入する、というのには、やっぱりそれなりの“現代性”みたいなのがないとなぁ、なんて。
俺としては、あんまりそういうのは感じなかったんで…。
ひょっとしたら、映画館でデカいスクリーンで観たらまた違った印象だったのかもしれないんですけど
キャラクターの演出とか、すげーいいんですよねぇ。
セットとかの美術も凝ってるし。
でも、そういうのを含めた“時代感”が、モノクロであるというトコに寄りかかり過ぎてるんじゃないかなぁ、なんて。
コーエン兄弟ですからねぇ。
カラーでも全然出来る腕を持ってる人たちですから。
まぁ、そういうのは作品の本質とはあまり関係ないですね。
で。
作品のストーリー。
なんつーか、個人的には、この「まわり回って~」とか、「無常観的な傍観者としての主人公」とかって、あんまりピンとこないんです。
ひょっとしたら、こういうのって、いわゆる「東洋的な」って感じなのかなぁ、なんて。
別に新鮮じゃないんだよね。
この作品の主人公がとり憑かれている“諦念”って、ひょっとしたらアメリカ人には新鮮な概念なのかもしれないんだけど、それこそ「塞翁が馬」じゃないけど、別に「無くはない」みたいな印象で。
「別に…」って感じがしちゃうんだよなぁ。
“輪廻”とか“因果応報”とか、日本人にとってはそんなに目新しい概念でもないでしょ?
でも、さすがに鋭いショットは幾つもありましたね。
バーバーでのカットはどれもクールだしね。
「奥さんを逮捕した」と刑事たちが主人公に告げに来るシークエンスは、なんかは、セリフも含めて、巧いなぁと思ってしまいました。特に、床屋に刑事が入ってくるカットは、ね。
ちゃんと緊張感を持たせてるし、ホンの少しの間なんだけど、その緊張感を持続させて生かして、という演出になってる。
デパートの奥の部屋で殺人を犯してしまうシークエンスも良かった。
その前、酔っ払った奥さんがベッドに横になってて、呼び出されて家を出て行って、殺してから家に戻ってきて、ベッドに寝てる奥さんの横に、というトコも。
そういう部分のキレ味は、さすがという感じです。
あ、あと、スカーレット・ヨハンソンがピアノ売り場でピアノを弾いてるショット。
あれは良かった。
あのあたりは、殺人という“一線”を越えてしまった主人公が、急に哲学的なことを言い出したり、美しい音楽に惹かれるという、芸術的な感性が覚醒したり、という、とても面白い展開のパーツのひとつになってるんだけど。
なんていうか、一線を越えた後に、急に“人間性”に目覚める、みたいな。
それまで、なんとなく流されて生きてきた主人公の内面が、そこで少し変化し始める、という。
そこは面白いですよねぇ。
でも、その後にその「人間性の獲得」みたいなのが強調されるかっていうと、別にそうでもないんで、作り手の意図はあんまりそこにはなかったのかな、なんて。
俺の勘違いなのかもしれませんけど。
そんな感じかなぁ。
ただ、重要なことは、後の大傑作「ノーカントリー」にも通じる要素が幾つか見られる、というところですね。主人公の諦念は、「ノーカントリー」のハビエルにもやっぱり繋がってると思うんだよねぇ。
まぁでも、その辺は別に「ノーカントリー」を観ればいいってだけの話なんだけど。
というワケで、巧く書けませんでしたが、「バーバー」の感想でした。
というか、久しぶりにレビューを書くんで、正直、なんだか書き方を忘れてしまった感じでして…。
コーエン兄弟。
「オー・ブラザー!」の後に作られた作品なんですねぇ。
う~ん。
面白いっちゃ面白いんですけど…。
まず、最初の印象は、なんといっても「モノクロ」である、というトコ。
「モノクロとは単に色がないというだけじゃない。もっとスペシャルなものなんだ」みたいなことを言っていたのは、フランスの天才マシュー・カソヴィッツですが、まぁ、コーエン兄弟にとってもチャレンジだってことなんでしょうかねぇ。
コーエン兄弟って、やっぱり、巧みにコントロールされた色彩感が特徴のひとつにあると思うんですよね。ロケーションや服やライトのチョイスってだけでなく、作品ごとに、全編にわたってちゃんと計算された色使い、というのが。
そういうのがこの作品にはないので。もちろん、そういう色彩感のひとつとしてモノクロが選択された、ということだとは思うんですが、なんつーか、別にねぇ、という。
この時代に、コーエン兄弟みたいなポジションの人たちが敢えてモノクロを導入する、というのには、やっぱりそれなりの“現代性”みたいなのがないとなぁ、なんて。
俺としては、あんまりそういうのは感じなかったんで…。
ひょっとしたら、映画館でデカいスクリーンで観たらまた違った印象だったのかもしれないんですけど
キャラクターの演出とか、すげーいいんですよねぇ。
セットとかの美術も凝ってるし。
でも、そういうのを含めた“時代感”が、モノクロであるというトコに寄りかかり過ぎてるんじゃないかなぁ、なんて。
コーエン兄弟ですからねぇ。
カラーでも全然出来る腕を持ってる人たちですから。
まぁ、そういうのは作品の本質とはあまり関係ないですね。
で。
作品のストーリー。
なんつーか、個人的には、この「まわり回って~」とか、「無常観的な傍観者としての主人公」とかって、あんまりピンとこないんです。
ひょっとしたら、こういうのって、いわゆる「東洋的な」って感じなのかなぁ、なんて。
別に新鮮じゃないんだよね。
この作品の主人公がとり憑かれている“諦念”って、ひょっとしたらアメリカ人には新鮮な概念なのかもしれないんだけど、それこそ「塞翁が馬」じゃないけど、別に「無くはない」みたいな印象で。
「別に…」って感じがしちゃうんだよなぁ。
“輪廻”とか“因果応報”とか、日本人にとってはそんなに目新しい概念でもないでしょ?
でも、さすがに鋭いショットは幾つもありましたね。
バーバーでのカットはどれもクールだしね。
「奥さんを逮捕した」と刑事たちが主人公に告げに来るシークエンスは、なんかは、セリフも含めて、巧いなぁと思ってしまいました。特に、床屋に刑事が入ってくるカットは、ね。
ちゃんと緊張感を持たせてるし、ホンの少しの間なんだけど、その緊張感を持続させて生かして、という演出になってる。
デパートの奥の部屋で殺人を犯してしまうシークエンスも良かった。
その前、酔っ払った奥さんがベッドに横になってて、呼び出されて家を出て行って、殺してから家に戻ってきて、ベッドに寝てる奥さんの横に、というトコも。
そういう部分のキレ味は、さすがという感じです。
あ、あと、スカーレット・ヨハンソンがピアノ売り場でピアノを弾いてるショット。
あれは良かった。
あのあたりは、殺人という“一線”を越えてしまった主人公が、急に哲学的なことを言い出したり、美しい音楽に惹かれるという、芸術的な感性が覚醒したり、という、とても面白い展開のパーツのひとつになってるんだけど。
なんていうか、一線を越えた後に、急に“人間性”に目覚める、みたいな。
それまで、なんとなく流されて生きてきた主人公の内面が、そこで少し変化し始める、という。
そこは面白いですよねぇ。
でも、その後にその「人間性の獲得」みたいなのが強調されるかっていうと、別にそうでもないんで、作り手の意図はあんまりそこにはなかったのかな、なんて。
俺の勘違いなのかもしれませんけど。
そんな感じかなぁ。
ただ、重要なことは、後の大傑作「ノーカントリー」にも通じる要素が幾つか見られる、というところですね。主人公の諦念は、「ノーカントリー」のハビエルにもやっぱり繋がってると思うんだよねぇ。
まぁでも、その辺は別に「ノーカントリー」を観ればいいってだけの話なんだけど。
というワケで、巧く書けませんでしたが、「バーバー」の感想でした。
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