真っ昼間のテレビ朝日の2時間ドラマの再放送で、原作:松本清張、監督:崔洋一、主演:松田優作(!)、そして共演が風吹ジュンという、豪華すぎて逆に引くぐらいな感じのドラマをやってたので、思わず観ちゃいました。
いやぁ。
トンでもなかったです。
これをテレビでやるかね、と。
虚無感ブリブリな、“裏”優作、という感じのアレが全開の、素晴らしい作品でした。
それから、この頃の風吹ジュンって、激マブだな、とか。
虚無感を抱えて、浮き草のように漂い続ける主人公と、その前に次々と現れては、「私に根を」張るように求める女性たち。
いや、よく出来たシナリオです。ホントに。見事に話をドライブしていく腕は、凄いなぁ、と。
ラスト、結局奥さんの元に戻ってくる、と。
そこで、もの凄い妖艶に変わるワケです。“お嬢さま”だった若奥さまが。
それって、結構凄い“運び”だな、と。
主人公は、若奥さまから、水商売の風吹ジュン、(ホントは二号さんなんだけど)資産家の有閑夫人の辺見マリ、という順に渡り歩いていくんだけど、この、3人の女性の配置の仕方が凄いですよね。
もちろん、それは原作の力でもあるんだけど。
ちゃんと2時間のドラマというフォーマットの中にそれをハメ込んでいる脚本の腕力は、結構凄い。
ちなみに、シナリオは橋本綾さんという方です。
とにかく、奥さんの元に帰ってくる、と。構造的には、そこに収斂されていくワケです。他の2人の女性とのドラマも。
ただただ「逃げたい」主人公を、それぞれは勝手に動いてるんだけど、結果的にどんどん(精神的に)追い込んでいく2人の女性。
その2人の女性の“欲望”に、弾き出されるようにして、奥さんの元に帰って来て、今度はその奥さんの“業”を解き放ってしまう、という。
ラストで、主人公の虚無感の理由が明かされるんだけど、それは、自分を捨てて入水自殺してしまった母親と、母親に抱かれて一緒に死んでいった妹だった、と。
これも凄い。息子だけ置いていく母親。自分だけ置き去りにされてしまう息子。
全部“女”ってトコも、ポイントですね。
この辺は、さすが“大巨人”松本清張って感じでしょうか。
怖ろしいっス。
演出面では、風吹ジュンが主人公にカラむ階段のカットが凄かった。
この辺はずっと長回しが採用されてるんですけど。
その、階段の、踊り場がなんか光ってる感じとか。
あとは、風吹ジュンが、自分のアパートに酔っ払って帰って来て、椅子の上に正座して座る姿、とか。
酔っ払ってるから、ということで、なんかクネクネしてるんですけど、あの演技は凄いっス。
アレはなかなか出来ませんよ。
それから、松田優作と辺見マリが、抱き合いながら2人して睡眠薬を飲む、という凄まじいショットも。
このショットの衝撃度は、メガトン級です。
しかも、そこが季節外れの海の家だった、というのが、後から分かる、という。
その、演出のスピード感も、結構注目かも。
長回しが多いのもあって、ゆったりなテンポに感じるんだけど、結構省略というか、バサッと省いてるトコもたくさんあって。それでテンポを出してるのかもな。
冒頭も、出会った2人が、何の説明もなく、新婚生活を送ってたりするからね。
それは、演出サイドの腕でしょう。恐らく。
奥さんが、主人公に呼び出されて、お寺の境内みたいなところを走っていくのも(上から鳥瞰の引きの画で撮ってる)、同じ画の中で立ち止まらせて、それだけで心情を表現したりして。
いやいやいや。
昼間っから凄いモンを観てしまいました、と。
マジ、ハンパないっス。
2009年1月19日月曜日
「ウーマン・オン・トップ」を観る
バリ・シネで、ペネロペ・クルス主演の「ウーマン・オン・トップ」を観る。
ブラジル出身の女性を演じる、ということで、彼女はスペイン語を話すんですけど、役柄はポルトガル語訛りの英語が、とりあえず超キュート。
というより、とにかくペネロペが輝きまくっている傑作です。
えぇ。
傑作だと思いました。
悶絶ですよ。ペネロペファンとしては。
冒頭、いきなり白目むいてるペネロペにビビりましたが、乗り物酔いが激しい、というワケの分からない(エレベーターにも乗れない)設定に納得したようでよく分かんないまま、ブラジルから、愛する男のたった一度の浮気をきっかけにブチ切れて、サンフランシスコの(結構美人な)ゲイの親友の家に旅立つ、という。
ざっくり言っちゃうと、レストランの“厨房”に押し込められていた彼女の「自分探し」の紆余曲折、ということなんですけど、そういうややこしい話は基本的にはナシ。
ペネロペがカワイくて、それでいいじゃん、という作品ですから。
キーになるポイントが幾つかあって、まずは、料理。ペネロペが凄腕の、オリジナリティ溢れる料理人、という設定になってて、その料理から立ち上る匂いには“魔法がある”ということになってます。
この、料理からたちこめる湯気を、超地味なCGで表現するんですけど、その“加減”がなんかカワイイですね。露骨に色が付いてたりするんじゃないくって、ホントにただの白い湯気で、それがふんわり広がっていく、という感じで。
この“ふんわり感”は、かなりセンスがいい。
もうひとつは、確か「イマンジャ」という呼び名の、海を司る女神がでてくるんですね。
女神の呪いで、魚が獲れなかったり、結局最後までよく分からなかったりするんですけど、2人が結ばれなかったり。
一応、最後に、彼女の料理の“匂い”で、呪いが解ける、みたいなことにはなるんですけど。
あ、途中、料理が作れなくなる、みたいなのは、「魔女の宅急便」の飛べなくなるトコを連想させて、ちょっと微笑ましい感じでした。
黒猫は出てこないんだけど。
それから、ディテールとして、彼女のヘアスタイルが挙げられます。ブワッとしたゴージャズなヘアスタイルは、アメリカではエキゾチックな、という感じなんでしょうかねぇ。
セクシーというか、官能的というか、言葉は悪いけど、より動物的、みたいな。
女性のディレクターが、途中、ペネロペと同じ髪型になってたり、銀座のママみたいな、グッと上げたヘアスタイルが、“洗練された”という表現なんでしょけど、その対極のものとして出てきます。アメリカナイズ、という意味なんでしょうかね。
衣装も、多分そういうニュアンスでチョイスされてるんだと思います。なに着てもカワイイけど。
う~ん。
いや、そんなこんなで、最後は、最愛の恋人と元の鞘に収まり、おそらく彼女の“ヒモ”として、ビーチサイドで歌って踊って暮らす、という結末なんですね。
ま、そんなこんなのストーリーが良いか、ということはさておき。
ペネロペ万歳、と。
そういうことでいいんじゃないんでしょうか。
ペネロペ・クルスという女優さんの素質ありきの、傑作だと思います。
日本でも、こういう作品があるといいな。
変にお色気に振り切り過ぎちゃってスベってたり、ワケが分からなくなっちゃう作品っていうのも一杯あるし。
あ、ちなみに、「ウーマン・オン・トップ」ってタイトルは、最初意味分かんなかったんですが、実は、単なる下ネタでした。
この、ギリギリ品の無さと有りの境目をいく感じも、粋で好きです。
人生に「官能」って、必要ですから。男女問わず。人間ですからね。
何度も書きますが、傑作です。是非どうぞ。
2009年1月17日土曜日
「ニューオーリンズ・トライアル」を観る
シネマ・エキスプレスで「ニューオーリンズ・トライアル」という作品を観る。
あんまり予備知識がないまま観たんですが、とりあえず豪華な配役にビックリ。観たことのあるメンツがズラり、ということで、眠たかったんですが、結構期待しながら観始めちゃいました。
内容は、最初はいわゆる正統派の“法廷モノ”というか、陪審員モノかと思ってたんですが、そうじゃなく、陪審員の評決をカネで買うかどうか、みたいな、かなり捻ったモノ。
原作はお馴染みのジョン・グリシャム。
設定がかなり捻ってあるので、それをちゃんと説明しないといけないんですが、特に前半はそこに力を入れてる感じでしたね。
「陪審コンサルタント」というワケの分からない職業について説明する為に、新人というか、ダスティン・ホフマンに売り込みに来る若手、というキャラクターを登場させて、彼に敵役のジーン・ハックマンの職業と任務を全部説明させる、と。
彼のキャラクターは、ほぼその為だけに登場してると言っちゃっていいと思います。法廷ではまったく活躍しませんからね。
原作ではその辺がどう描かれているのか分かりませんが、とりあえず、ジーン・ハックマンの役どころはスッと入ってきたので、巧くいってる、ということだと思います。
で。
とにかく登場人物が多い。
やたら多い!
法廷モノなんで、当然、原告と被告。
原告は、銃乱射事件の被害者なんですけど、この原告の未亡人と、弁護士(けっこうやり手、みたいなニュアンスで描かれています)、それから若いコンサルタント。
被告側は、まず、訴えられた銃器会社の社長と弁護士。それから、“黒幕”としてジーン・ハックマン。ジーン・ハックマンの(すげぇ沢山いる)部下たち。それから、銃器会社の経営者たちが何人も一座になって出てくる、というシーンもあります。
それから、陪審員。
で、主人公の、陪審員の一人(ジョン・キューザック)と、彼の恋人(レイチェル・ワイズ)。
それから、判事(裁判長)。裁判所の職員の黒人女性も、チラッとですけど、なかなかいいキャラを見せてますし。
いや、たいへんですよ。こんだけ人数がいると。
俳優陣だって、バイプレイヤー総動員、という感じで。そりゃ、みたことのある顔ばっかりでしょう。
ま、当然、それぞれのキャラクターについていちいち深く語っていくことは出来ないんで、その辺は“出来合い”のストーリーをパッチワーク状に総動員して、なんとなく受け手が全体像を掴めるようにはなってます。
それから、最後のどんでん返しの部分も。
そのどんでん返しの部分も、それはそれで“借り物”というか、ありきたりの話ではあるんですけど、ま、上手だなぁ、と。
組み合わせと語り口の妙なんだと思います。
ま、でも思うのは、連続ドラマなんかで長い時間を使ってガッツリ語る、みたいなフォーマットでも面白いかもね。
ジーン・ハックマンとダスティン・ホフマンの共演、ということでグッとくる人もいるのかもね、なんて。
あ、最後の、学校の校庭で遊ぶ子供たちのショットは、良かったです。
スクールシューティングが全部のきっかけになった、ということで。
陪審員か・・・。
日本でも始まるんですよね・・・。
あんまり予備知識がないまま観たんですが、とりあえず豪華な配役にビックリ。観たことのあるメンツがズラり、ということで、眠たかったんですが、結構期待しながら観始めちゃいました。
内容は、最初はいわゆる正統派の“法廷モノ”というか、陪審員モノかと思ってたんですが、そうじゃなく、陪審員の評決をカネで買うかどうか、みたいな、かなり捻ったモノ。
原作はお馴染みのジョン・グリシャム。
設定がかなり捻ってあるので、それをちゃんと説明しないといけないんですが、特に前半はそこに力を入れてる感じでしたね。
「陪審コンサルタント」というワケの分からない職業について説明する為に、新人というか、ダスティン・ホフマンに売り込みに来る若手、というキャラクターを登場させて、彼に敵役のジーン・ハックマンの職業と任務を全部説明させる、と。
彼のキャラクターは、ほぼその為だけに登場してると言っちゃっていいと思います。法廷ではまったく活躍しませんからね。
原作ではその辺がどう描かれているのか分かりませんが、とりあえず、ジーン・ハックマンの役どころはスッと入ってきたので、巧くいってる、ということだと思います。
で。
とにかく登場人物が多い。
やたら多い!
法廷モノなんで、当然、原告と被告。
原告は、銃乱射事件の被害者なんですけど、この原告の未亡人と、弁護士(けっこうやり手、みたいなニュアンスで描かれています)、それから若いコンサルタント。
被告側は、まず、訴えられた銃器会社の社長と弁護士。それから、“黒幕”としてジーン・ハックマン。ジーン・ハックマンの(すげぇ沢山いる)部下たち。それから、銃器会社の経営者たちが何人も一座になって出てくる、というシーンもあります。
それから、陪審員。
で、主人公の、陪審員の一人(ジョン・キューザック)と、彼の恋人(レイチェル・ワイズ)。
それから、判事(裁判長)。裁判所の職員の黒人女性も、チラッとですけど、なかなかいいキャラを見せてますし。
いや、たいへんですよ。こんだけ人数がいると。
俳優陣だって、バイプレイヤー総動員、という感じで。そりゃ、みたことのある顔ばっかりでしょう。
ま、当然、それぞれのキャラクターについていちいち深く語っていくことは出来ないんで、その辺は“出来合い”のストーリーをパッチワーク状に総動員して、なんとなく受け手が全体像を掴めるようにはなってます。
それから、最後のどんでん返しの部分も。
そのどんでん返しの部分も、それはそれで“借り物”というか、ありきたりの話ではあるんですけど、ま、上手だなぁ、と。
組み合わせと語り口の妙なんだと思います。
ま、でも思うのは、連続ドラマなんかで長い時間を使ってガッツリ語る、みたいなフォーマットでも面白いかもね。
ジーン・ハックマンとダスティン・ホフマンの共演、ということでグッとくる人もいるのかもね、なんて。
あ、最後の、学校の校庭で遊ぶ子供たちのショットは、良かったです。
スクールシューティングが全部のきっかけになった、ということで。
陪審員か・・・。
日本でも始まるんですよね・・・。
2009年1月10日土曜日
「シャイン・ア・ライト」を観る
新宿武蔵野館で、マーティン・スコセッシ監督、ローリング・ストーンズ“主演”の「シャイン・ア・ライト」を観る。
いやー、凄かった。
正直、一曲目が終わった時に、拍手しそうになりましたから。あやうく。
手を叩きかけてました。完全に。
いやぁ、凄かったっス。
ストーンズとスコセッシ。
冒頭、イントロダクションとして、リハーサルとかのショットが流れるんですが、ステージのリハの最初に、チャーリー・ワッツがドラムを叩き始めたら、その音に合わせてロン・ウッドが踊り始めたりして。
ストーンズのリズムっていうのはキースが担ってる、みたいに言われることもあるんだけど、なんだかんだで、チャーリーのドラムなんだな、と。ストーンズの音をドライヴさせているのは。
チャーリーのリズムと、キースのブルーズ。R&B。
そこにミックのボーカルが乗る、と。
別の言い方をすると、1人のジャズ・ドラマーと、1人のブルースマン(ギターと、ボーカルもね)。それに、2人のロッカー(ギタリストとボーカリスト)。それがストーンズ。
なんつって。
前半なんかは、ソウル系のショウに近いよな、みたいな。スタジアム級のステージに、コーラスやらホーン隊がズラッと並んでるのを見てもそういう風に思わなかったんだけどね。
同じ編成なんだけど。
なんか、改めて。そう感じましたね。BPM的にも。
コーラスも男女の2人とも黒人で、しかも舞台となったニューヨークのブルックリンとブロンクスの出身で。その2人もいい味だしてて、良かったです。いいバイプレイヤーってことですね。スコセッシのカメラと編集が、ちゃんとそこのトコを浮かび上がらせている、ということですけど。(対照的に、ホーン隊は殆どフィーチャーされてませんでした)
その、コーラスの黒人女性が、なんか妙に“いいオンナ”で、キースもミックも、なんか妙に彼女に近寄っていってるな、みたいな。3曲目の「She Was Hot」で。
「“She”ってことで?」と。
で、ハードな縦ノリを愉しむだけじゃなくって、やっぱりグルーヴを感じる音楽なんだな、と。
まぁ、あれだけのステージを見せられると、そんな感想が浮かんできますよね、やっぱり。
もちろん、後半はバリバリのロッキンな感じで。ま、ヒット曲がこれだけあると、盛り上がりますよ。当然。
そこは、なんせストーンズだし。
順番にいくとですね・・・。
イントロダクションで、リハ風景と、スコセッシが「ミックがセットリスト(曲順)を教えてくれねー」とか延々ぼやくシークエンスが流れるんですね。
これは、スコセッシが、ライブの演奏が始まる瞬間の爆発力を高める為に、自ら“人身御供”になってる、と見ました。
例えば、よくあるライブのドキュメンタリーの常套手段というか、定石としてある手法っていうのは、ミュージシャンたちの緊張した表情とかピリピリした雰囲気とか、あとは客入れ前のガランとした観客席とか。
そういうカットを使って、緊張感を”チャージ”するんですね。
ライブが始まる瞬間に、ポイントを合わせて。
「静寂」とか「緊張感」とか、そういう印象を映像を観ている側に与えておいて、あるポイントで、“解放”じゃないんだけど、テンションを一気に上げる、と。
で、この作品では、別にストーンズは、緊張してないし、みたいな。
完全にリラックスしまくってるワケです。
意図的に、彼らの“緊張感”を映してないのか、それとも緊張なんてさっぱりしてないのか。多分後者だと思うんですけど、ホントは分かりません。
ただ、スコセッシの“演出”としては、そこの“緊張感”の演出に、自分のブツブツぼやいてる姿を使っている、と。
これって、結構ポイントだと思うんですよ。
観る側の感情の流れをちゃんと導いていこうという意図がそこにあるワケですからね。
照明のライトが強すぎるから、ミックに当てすぎるな、みたいな話もあって。(ちなみに、これは作品の題名に掛けたジョークにもなってる、ということだと思います)
で。ライブが始まる、と。
オープニングは、ギターが曲を弾き始めてて、フロントマン(ボーカル)が、最後にステージに駆け込んできてマイクを持って、歌い始める、という。
これぞロックンロール・マナー、というヤツですよね。基本中の基本。
この辺も、ソウルの匂いを感じます。
あとはまぁ、“主演”のストーンズですよ。
イントロダクションの感じから、スコセッシがちょいちょい出てくんのかな、とも思ってたんですけど、まったくなし。
その、スコセッシの潔さも、ポイント高いですね。“分かってる”気がします。「俺がカッコつける映画じゃねーんだ」というトコで。
で、ストーンズのメンバーは、まぁカッチョいいっスよ。
キースの、ピックを投げる間、とか。
「その間か」って感じ。ロニーの周りをグルグル回ってたりしてるしね。
あと、途中でカントリーのカバー曲を歌う、という時に、コーラスで間違えてたらしく(曲のあとに、ミックに「間違えやがって」とか言われてる)、その、演奏中に明らかにミックの顔が強張ってるんですよ。
こっちとしては、「ん? どうした?」みたいな。
そういうトコも、ちゃんと映して、使ってるんですね。
間違って怒られちゃって、舌出して苦笑いのキース。
いい顔!
対して、ミックは、観客を前にして、まさに「君臨」してますよね。ミックは、観客を完全にコントロール下に置こうとする。そうやって、観客の興奮を呼び起こす、という。観客と自分たちの一体感をキープしつつ、興奮を喚起させる。
音楽のライブを表現するのに、「君臨しつつ奉仕する」という好きな言葉があるんですけど、ミックは「君臨」って感じ。
キースが、ギターを弾きながら、客に向かって跪く姿すら見せるのとは対照的なアレで。
シャーマニズムとしてのロックンロール、儀式としてのライブ、シャーマンとしてのミュージシャン。
とか言いつつ、途中で伝説のブルーズマンのバディ・ガイが登場すると、ちょっと雰囲気が変わって。
(もともとストーンズは、アメリカの黒人ミュージシャンが演奏するブルーズという音楽に憧れて、そのカバーバンドとして結成されていますから)
なんちゅーか、フロントの3人が3人とも、みんなバディ・ガイの近くに寄ってくるんですよ。
「ねぇねぇ、俺のギター聴いてくれよ」
「俺のギター、スゲェだろ。こんなに弾けるんだぜ」
「俺のギターも聴いてくれよ!」
「俺のハーモニカだって!」
みたいな。
スターに群がってサインをねだるガキ、みたいな感じ。3人とも。
別の曲の時にクリスティーナ・アギレラも出てくるんですけど、キースなんかアギレラに超冷たい。素っ気ない感じで。
ミックはまぁ、孫みたいな歳のアギレラと一緒に腰振ってますけどね。
いやいや。
音楽のことばっかり書いてますね。
さてさて。
この作品が内包しているストーリーについても、考えないといけません。
映画と音楽っていうのは、「時間芸術」という点で、共通項を持ってるワケです。
この2つの表現の領域では、表現者は常に、「時間」と自分の表現を“同期”(シンクロ)させてないといけないからです。
例えば文学は、受け手(読み手)の「時間」(スピード、要する時間、連続するか否か)をコントロールすることは出来ません。写真や絵画といった平面芸術もそうだし、もちろん彫刻やファッションや建築なんかも、同じで。
特に立体表現では、逆に時間を超越していく、みたいなトコが美点とされていたりもするしね。
で、「映画」(映像)においては、「時間」は常に「ストーリー」とイコールなワケです。
例え、道を人が歩いていく一分間だけの映像でも、人はそこにストーリーを受け取ってしまう、という。
受け取る、というか、投影というか、投下というか。
音楽の場合、この時間の等式は、必ずしも成立しないんだけど、ストーンズのこのライブというのは、なにしろ「映画」なんですよ。
ここでいきなり結論を書いてしまうと、“映画”監督のスコセッシは、この作品において、ストーンズというアイコンが“過去”に紡いできた(つまり、バンド史という意味の)ヒストリーの、1/3ぐらいのストーリーを語ることに成功してるんです。
ライブ映像の途中に、過去のインタビュー映像がピックアップされて挿入されてるんですけど、それは、実はスコセッシがインタビューしたものですらないんですね。
つまり、それはある意味で、受け手に既に「共有」されているモノ、というか。
新しくスコセッシが引き出した、あるいは創り出した言葉じゃないワケです。
しかし、その、古いニュース・フィルムの中で語る彼らと、今の、ステージ上の姿。
この2つが受け手の中で繋がることによって(モンタージュ?)、そこに、ストーンズというバンドを生きてきた彼らの歴史を、つまりある種のストーリーをそこに存在させてしまう、という。
もちろん、ブライアン・ジョーンズという“陰影”は出てこないし(なんせ「Shine A Light」だし)、これも常套句である、彼らのプライベートというトピックも、殆ど出てこない。キースとミックの衝突、みたいのも、あんまり語られないし。
だけど、現在の彼らが内包しているストーリーの、三分の一でも語れれば、もう十分なボリュームがあるしね。マジで。
この作品においては、これでいいんでしょう。
というワケで、キースとロニーがお互いに語るシークエンスが、最高にクールです。
ロニー「(ギターは)俺の方が上手い」
キース「分かってるのは、2人が揃うと最強だってことだ」
みたいな。
“転がる石”のように、演奏し続けることが、何よりも彼らの「伝説」なんだ、と。
その、彼らが“彼ら”である、つまりバンドとしてやり続けている、というトコ。
そこが、例えばポール・マッカートニーや、デヴィッド・ボウイやThe WHO なんかとは違う、彼らならではのストーリーなワケですな。うん。
そういうことでいいでしょうか?
というワケで、とにかく傑作。
ぜひぜひ、映画館の大スクリーンと大音量で観て下さい。
マジで。
いやー、凄かった。
正直、一曲目が終わった時に、拍手しそうになりましたから。あやうく。
手を叩きかけてました。完全に。
いやぁ、凄かったっス。
ストーンズとスコセッシ。
冒頭、イントロダクションとして、リハーサルとかのショットが流れるんですが、ステージのリハの最初に、チャーリー・ワッツがドラムを叩き始めたら、その音に合わせてロン・ウッドが踊り始めたりして。
ストーンズのリズムっていうのはキースが担ってる、みたいに言われることもあるんだけど、なんだかんだで、チャーリーのドラムなんだな、と。ストーンズの音をドライヴさせているのは。
チャーリーのリズムと、キースのブルーズ。R&B。
そこにミックのボーカルが乗る、と。
別の言い方をすると、1人のジャズ・ドラマーと、1人のブルースマン(ギターと、ボーカルもね)。それに、2人のロッカー(ギタリストとボーカリスト)。それがストーンズ。
なんつって。
前半なんかは、ソウル系のショウに近いよな、みたいな。スタジアム級のステージに、コーラスやらホーン隊がズラッと並んでるのを見てもそういう風に思わなかったんだけどね。
同じ編成なんだけど。
なんか、改めて。そう感じましたね。BPM的にも。
コーラスも男女の2人とも黒人で、しかも舞台となったニューヨークのブルックリンとブロンクスの出身で。その2人もいい味だしてて、良かったです。いいバイプレイヤーってことですね。スコセッシのカメラと編集が、ちゃんとそこのトコを浮かび上がらせている、ということですけど。(対照的に、ホーン隊は殆どフィーチャーされてませんでした)
その、コーラスの黒人女性が、なんか妙に“いいオンナ”で、キースもミックも、なんか妙に彼女に近寄っていってるな、みたいな。3曲目の「She Was Hot」で。
「“She”ってことで?」と。
で、ハードな縦ノリを愉しむだけじゃなくって、やっぱりグルーヴを感じる音楽なんだな、と。
まぁ、あれだけのステージを見せられると、そんな感想が浮かんできますよね、やっぱり。
もちろん、後半はバリバリのロッキンな感じで。ま、ヒット曲がこれだけあると、盛り上がりますよ。当然。
そこは、なんせストーンズだし。
順番にいくとですね・・・。
イントロダクションで、リハ風景と、スコセッシが「ミックがセットリスト(曲順)を教えてくれねー」とか延々ぼやくシークエンスが流れるんですね。
これは、スコセッシが、ライブの演奏が始まる瞬間の爆発力を高める為に、自ら“人身御供”になってる、と見ました。
例えば、よくあるライブのドキュメンタリーの常套手段というか、定石としてある手法っていうのは、ミュージシャンたちの緊張した表情とかピリピリした雰囲気とか、あとは客入れ前のガランとした観客席とか。
そういうカットを使って、緊張感を”チャージ”するんですね。
ライブが始まる瞬間に、ポイントを合わせて。
「静寂」とか「緊張感」とか、そういう印象を映像を観ている側に与えておいて、あるポイントで、“解放”じゃないんだけど、テンションを一気に上げる、と。
で、この作品では、別にストーンズは、緊張してないし、みたいな。
完全にリラックスしまくってるワケです。
意図的に、彼らの“緊張感”を映してないのか、それとも緊張なんてさっぱりしてないのか。多分後者だと思うんですけど、ホントは分かりません。
ただ、スコセッシの“演出”としては、そこの“緊張感”の演出に、自分のブツブツぼやいてる姿を使っている、と。
これって、結構ポイントだと思うんですよ。
観る側の感情の流れをちゃんと導いていこうという意図がそこにあるワケですからね。
照明のライトが強すぎるから、ミックに当てすぎるな、みたいな話もあって。(ちなみに、これは作品の題名に掛けたジョークにもなってる、ということだと思います)
で。ライブが始まる、と。
オープニングは、ギターが曲を弾き始めてて、フロントマン(ボーカル)が、最後にステージに駆け込んできてマイクを持って、歌い始める、という。
これぞロックンロール・マナー、というヤツですよね。基本中の基本。
この辺も、ソウルの匂いを感じます。
あとはまぁ、“主演”のストーンズですよ。
イントロダクションの感じから、スコセッシがちょいちょい出てくんのかな、とも思ってたんですけど、まったくなし。
その、スコセッシの潔さも、ポイント高いですね。“分かってる”気がします。「俺がカッコつける映画じゃねーんだ」というトコで。
で、ストーンズのメンバーは、まぁカッチョいいっスよ。
キースの、ピックを投げる間、とか。
「その間か」って感じ。ロニーの周りをグルグル回ってたりしてるしね。
あと、途中でカントリーのカバー曲を歌う、という時に、コーラスで間違えてたらしく(曲のあとに、ミックに「間違えやがって」とか言われてる)、その、演奏中に明らかにミックの顔が強張ってるんですよ。
こっちとしては、「ん? どうした?」みたいな。
そういうトコも、ちゃんと映して、使ってるんですね。
間違って怒られちゃって、舌出して苦笑いのキース。
いい顔!
対して、ミックは、観客を前にして、まさに「君臨」してますよね。ミックは、観客を完全にコントロール下に置こうとする。そうやって、観客の興奮を呼び起こす、という。観客と自分たちの一体感をキープしつつ、興奮を喚起させる。
音楽のライブを表現するのに、「君臨しつつ奉仕する」という好きな言葉があるんですけど、ミックは「君臨」って感じ。
キースが、ギターを弾きながら、客に向かって跪く姿すら見せるのとは対照的なアレで。
シャーマニズムとしてのロックンロール、儀式としてのライブ、シャーマンとしてのミュージシャン。
とか言いつつ、途中で伝説のブルーズマンのバディ・ガイが登場すると、ちょっと雰囲気が変わって。
(もともとストーンズは、アメリカの黒人ミュージシャンが演奏するブルーズという音楽に憧れて、そのカバーバンドとして結成されていますから)
なんちゅーか、フロントの3人が3人とも、みんなバディ・ガイの近くに寄ってくるんですよ。
「ねぇねぇ、俺のギター聴いてくれよ」
「俺のギター、スゲェだろ。こんなに弾けるんだぜ」
「俺のギターも聴いてくれよ!」
「俺のハーモニカだって!」
みたいな。
スターに群がってサインをねだるガキ、みたいな感じ。3人とも。
別の曲の時にクリスティーナ・アギレラも出てくるんですけど、キースなんかアギレラに超冷たい。素っ気ない感じで。
ミックはまぁ、孫みたいな歳のアギレラと一緒に腰振ってますけどね。
いやいや。
音楽のことばっかり書いてますね。
さてさて。
この作品が内包しているストーリーについても、考えないといけません。
映画と音楽っていうのは、「時間芸術」という点で、共通項を持ってるワケです。
この2つの表現の領域では、表現者は常に、「時間」と自分の表現を“同期”(シンクロ)させてないといけないからです。
例えば文学は、受け手(読み手)の「時間」(スピード、要する時間、連続するか否か)をコントロールすることは出来ません。写真や絵画といった平面芸術もそうだし、もちろん彫刻やファッションや建築なんかも、同じで。
特に立体表現では、逆に時間を超越していく、みたいなトコが美点とされていたりもするしね。
で、「映画」(映像)においては、「時間」は常に「ストーリー」とイコールなワケです。
例え、道を人が歩いていく一分間だけの映像でも、人はそこにストーリーを受け取ってしまう、という。
受け取る、というか、投影というか、投下というか。
音楽の場合、この時間の等式は、必ずしも成立しないんだけど、ストーンズのこのライブというのは、なにしろ「映画」なんですよ。
ここでいきなり結論を書いてしまうと、“映画”監督のスコセッシは、この作品において、ストーンズというアイコンが“過去”に紡いできた(つまり、バンド史という意味の)ヒストリーの、1/3ぐらいのストーリーを語ることに成功してるんです。
ライブ映像の途中に、過去のインタビュー映像がピックアップされて挿入されてるんですけど、それは、実はスコセッシがインタビューしたものですらないんですね。
つまり、それはある意味で、受け手に既に「共有」されているモノ、というか。
新しくスコセッシが引き出した、あるいは創り出した言葉じゃないワケです。
しかし、その、古いニュース・フィルムの中で語る彼らと、今の、ステージ上の姿。
この2つが受け手の中で繋がることによって(モンタージュ?)、そこに、ストーンズというバンドを生きてきた彼らの歴史を、つまりある種のストーリーをそこに存在させてしまう、という。
もちろん、ブライアン・ジョーンズという“陰影”は出てこないし(なんせ「Shine A Light」だし)、これも常套句である、彼らのプライベートというトピックも、殆ど出てこない。キースとミックの衝突、みたいのも、あんまり語られないし。
だけど、現在の彼らが内包しているストーリーの、三分の一でも語れれば、もう十分なボリュームがあるしね。マジで。
この作品においては、これでいいんでしょう。
というワケで、キースとロニーがお互いに語るシークエンスが、最高にクールです。
ロニー「(ギターは)俺の方が上手い」
キース「分かってるのは、2人が揃うと最強だってことだ」
みたいな。
“転がる石”のように、演奏し続けることが、何よりも彼らの「伝説」なんだ、と。
その、彼らが“彼ら”である、つまりバンドとしてやり続けている、というトコ。
そこが、例えばポール・マッカートニーや、デヴィッド・ボウイやThe WHO なんかとは違う、彼らならではのストーリーなワケですな。うん。
そういうことでいいでしょうか?
というワケで、とにかく傑作。
ぜひぜひ、映画館の大スクリーンと大音量で観て下さい。
マジで。
2009年1月6日火曜日
「エディット・ピアフ 愛の賛歌」を観る
日曜日の真っ昼間に、新春ナントカってことでテレビで放送してた「エディット・ピアフ」を観たので。
エディット・ピアフの、どこまでも満たされることのない悲劇的な人生を描いた作品、ですね。
直線的に人生を描いていくのではなく、時間軸が切り刻まれた形で描写される、と。単純に言ってしまうと、「駆け上っていく時期」と、「墜ちていく時期」のカットバック、という。
もう一つ、悲惨な少女時代の、だいたいこの三つに分けられる感じでしょうか。
母親に捨てられていた少女が、父親の実家である娼館に連れていかれ、逆に過剰な愛情を浴びせられて育って、その後に、父親に連れられて、また愛情不全の環境で暮らす、と。
ここまでが少女時代。
それから、父親と離れ、母親に憎まれながらも、その歌声で、成功への足がかりを掴む。
あらぬ容疑を掛けられて転落しかけるも、権威主義的な、“父権”的な男に歌い方を叩き込まれ、そして遂に成功する。これが「駆け上がっていく時期」。
ま、シナリオがホントに巧み、というか。上手に繋いでいく感じで。
映像的には、あまりトリッキーというか、技巧を凝らした、というアレではなく、主人公を常に真ん中に置いて、ひとつひとつのカットをしっかり撮っていく、と。
長回しがなかり多用されてましたけど。
冒頭の少女時代の描写では、揺れるカメラでずっと撮ってたり。
道路を歩いていく姿をずっと追っていったり。
セットはハンパないですけどね。屋外も屋内のシーンも、相当カネがかかってます、多分。
だからこその、このカメラワークなんでしょうけど。
ニューヨークのペントハウスみたいなトコで、ベッドからお茶を取りに行って、途中使用人たちにずっと声を掛けていって、戻って行くと、実は亡霊で、そのまま叫びながら、ステージに出て行く、というのをワンカットで撮ってたりして。
グルグル部屋を回っていくんだけど。
その辺は印象的でした。
ま、大作ですよね。ホントに。人生を丸ごと語るんですから。
エディット・ピアフの、どこまでも満たされることのない悲劇的な人生を描いた作品、ですね。
直線的に人生を描いていくのではなく、時間軸が切り刻まれた形で描写される、と。単純に言ってしまうと、「駆け上っていく時期」と、「墜ちていく時期」のカットバック、という。
もう一つ、悲惨な少女時代の、だいたいこの三つに分けられる感じでしょうか。
母親に捨てられていた少女が、父親の実家である娼館に連れていかれ、逆に過剰な愛情を浴びせられて育って、その後に、父親に連れられて、また愛情不全の環境で暮らす、と。
ここまでが少女時代。
それから、父親と離れ、母親に憎まれながらも、その歌声で、成功への足がかりを掴む。
あらぬ容疑を掛けられて転落しかけるも、権威主義的な、“父権”的な男に歌い方を叩き込まれ、そして遂に成功する。これが「駆け上がっていく時期」。
ま、シナリオがホントに巧み、というか。上手に繋いでいく感じで。
映像的には、あまりトリッキーというか、技巧を凝らした、というアレではなく、主人公を常に真ん中に置いて、ひとつひとつのカットをしっかり撮っていく、と。
長回しがなかり多用されてましたけど。
冒頭の少女時代の描写では、揺れるカメラでずっと撮ってたり。
道路を歩いていく姿をずっと追っていったり。
セットはハンパないですけどね。屋外も屋内のシーンも、相当カネがかかってます、多分。
だからこその、このカメラワークなんでしょうけど。
ニューヨークのペントハウスみたいなトコで、ベッドからお茶を取りに行って、途中使用人たちにずっと声を掛けていって、戻って行くと、実は亡霊で、そのまま叫びながら、ステージに出て行く、というのをワンカットで撮ってたりして。
グルグル部屋を回っていくんだけど。
その辺は印象的でした。
ま、大作ですよね。ホントに。人生を丸ごと語るんですから。
2009年1月2日金曜日
「叫」を観る
黒沢清監督の「叫」を観る。
2006年公開ですから、三年前ですか。
しかし、なんて暗鬱な気持ちにさせる映画なんだろう。
まるで横溝正史の世界だしね。しかも、わずか15年前の怨霊にたたられる、という。
オープニングカットの、妙に「虚構」感が強調されたカットで、赤いワンピースの女が殺されて。なんか変だなぁ、なんて思いながら話が進んでいくんですけど。
赤いワンピースの女は、“東京”という“地場”の怨みを象徴してる、と。
その、失敗国家ならぬ、「失敗した都市」として、東京が描かれていて。特に前半部分では、そこら辺が繰り返し表現されてますよね。セリフであったり、ショットであったりという形で。
わずか15年前には、まだ“東京”には色んな夢とか将来図とか、そういうのが「皆に信じられていたんだけど」みたいな。そんな感じ。
かつての「ウォーターフロント」ですからね。“東京”という失敗都市の虚像の部分が、あの場所に集約されている、と。スラムとしての東京、廃墟としての東京。うち棄てられた、東京という都市がかつて持っていた何かの、その象徴が、赤いワンピースの女の“叫び”なのだ、と。
「加害者」たちは、ある法則を持って、赤いワンピースの女性に選ばれるワケですね。それは、セリフを引用するなら「自分のことを見ていない」。ざっくり言うと、孤独感。「孤独」ではなく「孤独感」。
「独りで生きていけるように」育てた娘が、しかし、その恋人に殺されるという、最初の事件の背景にある、「孤独な人間」の物語。
その「コミュニケーション不全」に対する罰、という意味で、殺されるワケですね。被害者たちは。
「自分に心を開かない息子」を、その罰として殺す父親。恐らく「独りで生きていける」彼女を、その罰として、彼女の親にまで依存しないと生きていけない彼氏が殺す。
相手が、自分の思うとおりにならないから。
例えば、警察署内の刑事たちは、互いに向き合うことなく、同じ方向を向いているように並んでいる。互いに、背中越しに会話する、という。
廃墟の地縛霊となった赤いワンピースの女が、分かり合えない彼らを、お互いに殺し合うようにしむける、と。
でも不思議なのは、最後に伊原剛志が殺されちゃうことですねぇ。彼は“相棒”である主人公を心配してるワケですから。
彼は、主人公の生活に、かなり干渉している。カウンセリングを受けるように勧めたり、心配して団地の部屋を訪ねたりしてて。
あれは、小西真奈美の、「ジャマをするな」という怨霊なんでしょうか。
逆に、それは、その伊原剛志の“関心”がただの上っ面でしかない、というアイロニーの暴露なんでしょうか。「もっと早く気づけよ」みたいな。「同僚なら」と。
オダギリジョーのカウンセラーが、妙に過剰反応するシーンがありますけど、あれも実は、彼も赤いワンピースの女の鏡の像を見たことがあって、みたいなことの示唆なのかもしれません。深読みしすぎかもしれないけどね。
葉月里緒奈≒小西真奈美なワケですね。
中盤、赤いワンピースの女に追われるシークエンスの後、「赤い薔薇」がプリントされたワンピース姿の小西真奈美のカットに繋がれるんですけど、個人的にはそこが一番衝撃的だったかも。「うわっ」みたいな。「やっぱ一緒なんだな」という。“一緒”というか、“同類”。「赤い薔薇」で、殆どが赤い色で占められているワンピースを着ている小西真奈美。
療養所の廃墟に、葉月里緒奈と思われる女性の、子供を抱いている昔の写真がありましたけど、それは、女性=母親であることの強調で。
長い黒髪の女性、という、まぁ、「仮想母」みたいなアレですからね。主人公と小西真奈美も、決して裸で抱き合うんじゃなく、膝に頭を寄せて、物理的に抱かれるだけ、ですから。
成長しない男、というか。幼いマチズモ。
自分を殺す、という罪すらも、主人公は許されてしまう、という。
で、自分の胸の中にすがり付いてくる主人公を抱き締めながら、小西真奈美が見せる表情の強さ。
あの表情は、なんつーか、彼女もそういう「擬似母子」みたいな関係を望んでいた、みたいな表現なのか。それとも、そういう関係に対する嫌悪感、というか、そういう関係性しか求めてこない男に対する怒りなのか。
逆に、旅立とうとする時に、駅の構内に1人で置き去りにされる時の、小西真奈美の、虚無と諦念を感じさせる表情。まぁ、いい演技だよなぁ、と。ホントに。
ラストでは、その“母親”の骨を拾う表現があるので、もしかしたら、「母殺し」のストーリーなんでしょうか?
「母殺し」というか、母を越える、つまり成長して大人になる、みたいな。そういう物語ってことでいいのかなぁ。
どうなんでしょう。いいんでしょうか。
う~ん。
前作「LOFT」の中谷美紀も、確かあんな表情をしてたなぁ。というか、確か似たような存在だったような・・・。
いや。つらつら書いてしまいましたけど、ホントは全然ピント外れ、みたいな可能性もあるかもね。
「そうじゃねぇだろ」みたいな。
もっと映像美を観ろよ、とか、常に左右のどちらかに偏ってる(個人的には左が多かった気がします)構図の巧さと気持ち悪さを感じろよ、とか。
ホラー・サスペンスの部分はどうなってんだよ、とか。
ま、あしからず、ということで。
まぁしかし、葉月里緒奈の、ちょっと病的な顔の造りっていうのは、亡霊役にぴったりですね。マジで怖い。というか、気持ち悪い。
なんかやっぱり、顔のパーツのバランスが、どっか違う感じになってますよね。あんな顔を作られたら、寝れないっス。
小西真奈美は、個人的に好きっていうのもあるけど、ホントに美しいです。怖いけど。
2006年公開ですから、三年前ですか。
しかし、なんて暗鬱な気持ちにさせる映画なんだろう。
まるで横溝正史の世界だしね。しかも、わずか15年前の怨霊にたたられる、という。
オープニングカットの、妙に「虚構」感が強調されたカットで、赤いワンピースの女が殺されて。なんか変だなぁ、なんて思いながら話が進んでいくんですけど。
赤いワンピースの女は、“東京”という“地場”の怨みを象徴してる、と。
その、失敗国家ならぬ、「失敗した都市」として、東京が描かれていて。特に前半部分では、そこら辺が繰り返し表現されてますよね。セリフであったり、ショットであったりという形で。
わずか15年前には、まだ“東京”には色んな夢とか将来図とか、そういうのが「皆に信じられていたんだけど」みたいな。そんな感じ。
かつての「ウォーターフロント」ですからね。“東京”という失敗都市の虚像の部分が、あの場所に集約されている、と。スラムとしての東京、廃墟としての東京。うち棄てられた、東京という都市がかつて持っていた何かの、その象徴が、赤いワンピースの女の“叫び”なのだ、と。
「加害者」たちは、ある法則を持って、赤いワンピースの女性に選ばれるワケですね。それは、セリフを引用するなら「自分のことを見ていない」。ざっくり言うと、孤独感。「孤独」ではなく「孤独感」。
「独りで生きていけるように」育てた娘が、しかし、その恋人に殺されるという、最初の事件の背景にある、「孤独な人間」の物語。
その「コミュニケーション不全」に対する罰、という意味で、殺されるワケですね。被害者たちは。
「自分に心を開かない息子」を、その罰として殺す父親。恐らく「独りで生きていける」彼女を、その罰として、彼女の親にまで依存しないと生きていけない彼氏が殺す。
相手が、自分の思うとおりにならないから。
例えば、警察署内の刑事たちは、互いに向き合うことなく、同じ方向を向いているように並んでいる。互いに、背中越しに会話する、という。
廃墟の地縛霊となった赤いワンピースの女が、分かり合えない彼らを、お互いに殺し合うようにしむける、と。
でも不思議なのは、最後に伊原剛志が殺されちゃうことですねぇ。彼は“相棒”である主人公を心配してるワケですから。
彼は、主人公の生活に、かなり干渉している。カウンセリングを受けるように勧めたり、心配して団地の部屋を訪ねたりしてて。
あれは、小西真奈美の、「ジャマをするな」という怨霊なんでしょうか。
逆に、それは、その伊原剛志の“関心”がただの上っ面でしかない、というアイロニーの暴露なんでしょうか。「もっと早く気づけよ」みたいな。「同僚なら」と。
オダギリジョーのカウンセラーが、妙に過剰反応するシーンがありますけど、あれも実は、彼も赤いワンピースの女の鏡の像を見たことがあって、みたいなことの示唆なのかもしれません。深読みしすぎかもしれないけどね。
葉月里緒奈≒小西真奈美なワケですね。
中盤、赤いワンピースの女に追われるシークエンスの後、「赤い薔薇」がプリントされたワンピース姿の小西真奈美のカットに繋がれるんですけど、個人的にはそこが一番衝撃的だったかも。「うわっ」みたいな。「やっぱ一緒なんだな」という。“一緒”というか、“同類”。「赤い薔薇」で、殆どが赤い色で占められているワンピースを着ている小西真奈美。
療養所の廃墟に、葉月里緒奈と思われる女性の、子供を抱いている昔の写真がありましたけど、それは、女性=母親であることの強調で。
長い黒髪の女性、という、まぁ、「仮想母」みたいなアレですからね。主人公と小西真奈美も、決して裸で抱き合うんじゃなく、膝に頭を寄せて、物理的に抱かれるだけ、ですから。
成長しない男、というか。幼いマチズモ。
自分を殺す、という罪すらも、主人公は許されてしまう、という。
で、自分の胸の中にすがり付いてくる主人公を抱き締めながら、小西真奈美が見せる表情の強さ。
あの表情は、なんつーか、彼女もそういう「擬似母子」みたいな関係を望んでいた、みたいな表現なのか。それとも、そういう関係に対する嫌悪感、というか、そういう関係性しか求めてこない男に対する怒りなのか。
逆に、旅立とうとする時に、駅の構内に1人で置き去りにされる時の、小西真奈美の、虚無と諦念を感じさせる表情。まぁ、いい演技だよなぁ、と。ホントに。
ラストでは、その“母親”の骨を拾う表現があるので、もしかしたら、「母殺し」のストーリーなんでしょうか?
「母殺し」というか、母を越える、つまり成長して大人になる、みたいな。そういう物語ってことでいいのかなぁ。
どうなんでしょう。いいんでしょうか。
う~ん。
前作「LOFT」の中谷美紀も、確かあんな表情をしてたなぁ。というか、確か似たような存在だったような・・・。
いや。つらつら書いてしまいましたけど、ホントは全然ピント外れ、みたいな可能性もあるかもね。
「そうじゃねぇだろ」みたいな。
もっと映像美を観ろよ、とか、常に左右のどちらかに偏ってる(個人的には左が多かった気がします)構図の巧さと気持ち悪さを感じろよ、とか。
ホラー・サスペンスの部分はどうなってんだよ、とか。
ま、あしからず、ということで。
まぁしかし、葉月里緒奈の、ちょっと病的な顔の造りっていうのは、亡霊役にぴったりですね。マジで怖い。というか、気持ち悪い。
なんかやっぱり、顔のパーツのバランスが、どっか違う感じになってますよね。あんな顔を作られたら、寝れないっス。
小西真奈美は、個人的に好きっていうのもあるけど、ホントに美しいです。怖いけど。
2009年1月1日木曜日
「ミシェル・ヴァイヨン」を観る
フランス製の、実はリュック・ベッソンが脚本に参加している、「ミシェル・ヴァイヨン」を観る。
フランスのコミック(「バンド・デシネ」って言います)が原作、ということで、日本で言ったら「サーキットの狼」とか「頭文字D」とか、そんなイメージでしょうかね。
“荒唐無稽”とか言ってしまえばそうなんでしょうけど、個人的には、面白いな、と。いい映画でした。
ま、“男の子”のハートをがっちり掴む、的な。
とりあえず、映像はキレイですね。陰影を強調した、という、ま、「銀残し」に近い感じの。
特に、車の物語ですから、アスファルトの黒と、ヨーロッパの平べったい森の緑と、空の青と、という感じの色の対比が映える感じで。
単純に、舞台となる「ルマン24時間レース」の、あの観客席の映像だけでも、テンション上がるし。
レース中の映像も、なかなかいいです。クラッシュしてひっくり返る瞬間、ドライバーが頭抱えてたりして。
あと、そのレース中の音の使い方も上手。実はその辺は、セオリー通りっちゃそうなんですけど、逆にそこをちゃんと抑えてる、という意味でも。なかなか上手な演出だと思いました。
音楽も。モダンな映像にフィットした、モダンなサウンド。かといって、何年か後に観たら(聴いたら)もう陳腐化してる、みたいな音でもなくって。(「ルネサンス」というフランス製のアニメが、そうでした)
そういう、快楽原則みたいなのをちゃんと抑えている、と。そういう作品ですね。
敵役の、「あしたのジョーの」白木葉子的なキャラクターも、いかにもという感じで、美しくて狡猾で、という。
その辺も、味方の“爽やか美人”と存在と併せて、「007」の踏襲なんですけどね。
それから、モータースポーツっていうのは、これは万国共通だと思うんですけど、基本的には金持ちの道楽なワケで。
この作品も、そこはそのまま。主人公は、富豪の三代目かなんかで、しかも次男。
敵は、主人公の親父の元ライバルで、性格の悪い娘。
変に成り上がりストーリーを入れ込んでこないトコも、結構好感持てます。余計なトピックで“社会派”ぶらない、という部分で。モータースポーツなんて、そんなモンですからね。基本的に。
で、レースの外側で、誘拐だったり破壊工作(サボタージュって言ってますね)だったり、それを知恵と勇気と信頼と、あとは腕前で乗り越えていく、と。
そういうサスペンスの部分も、まぁ、楽しいですよ。テンポもいいし。変なポイントで裏切ったりしませんから。
主人公はどこまでも爽やかで、みたいな。
最後に勝つしね。必ず。ヒーローは勝つ、と。
そういうのもいいですよ。完全に振り切ってますから。こういう風に、真正面から語られると。
そういう意味では、同じくコミックが原作の「ダークナイト」とは、まったく正反対の方向に振っているワケなんだけど。でも、こちらはこちらで、いい作品だと思います。
「TOTAL」「ELF」のスポンサーに対するアレもばっちり。「マクドナルド」も、多分そうなんだけど、そこはフランス製なので、ちょっと捻ってますけどね。
それから、登場してくる車も、どれもクールなフォルムで、超クール。
あとは何だろうな・・・。
敵役が香港系(多分)、レースの途中クラッシュしてリタイアする車が日本車、アメリカ人の同僚レーサーは色仕掛けにすぐ落ちる、最後にフランス人の主人公たちの“家族的な絆”が強調される、などなどの、まぁ、フランス人の若い観客に媚びを売りまくる、という、政治性っつーか、その辺も結構ツボかな。分かりやすいし。
やるならこのくらいやりましょう、と。
そういう作品でした。
フランスのコミック(「バンド・デシネ」って言います)が原作、ということで、日本で言ったら「サーキットの狼」とか「頭文字D」とか、そんなイメージでしょうかね。
“荒唐無稽”とか言ってしまえばそうなんでしょうけど、個人的には、面白いな、と。いい映画でした。
ま、“男の子”のハートをがっちり掴む、的な。
とりあえず、映像はキレイですね。陰影を強調した、という、ま、「銀残し」に近い感じの。
特に、車の物語ですから、アスファルトの黒と、ヨーロッパの平べったい森の緑と、空の青と、という感じの色の対比が映える感じで。
単純に、舞台となる「ルマン24時間レース」の、あの観客席の映像だけでも、テンション上がるし。
レース中の映像も、なかなかいいです。クラッシュしてひっくり返る瞬間、ドライバーが頭抱えてたりして。
あと、そのレース中の音の使い方も上手。実はその辺は、セオリー通りっちゃそうなんですけど、逆にそこをちゃんと抑えてる、という意味でも。なかなか上手な演出だと思いました。
音楽も。モダンな映像にフィットした、モダンなサウンド。かといって、何年か後に観たら(聴いたら)もう陳腐化してる、みたいな音でもなくって。(「ルネサンス」というフランス製のアニメが、そうでした)
そういう、快楽原則みたいなのをちゃんと抑えている、と。そういう作品ですね。
敵役の、「あしたのジョーの」白木葉子的なキャラクターも、いかにもという感じで、美しくて狡猾で、という。
その辺も、味方の“爽やか美人”と存在と併せて、「007」の踏襲なんですけどね。
それから、モータースポーツっていうのは、これは万国共通だと思うんですけど、基本的には金持ちの道楽なワケで。
この作品も、そこはそのまま。主人公は、富豪の三代目かなんかで、しかも次男。
敵は、主人公の親父の元ライバルで、性格の悪い娘。
変に成り上がりストーリーを入れ込んでこないトコも、結構好感持てます。余計なトピックで“社会派”ぶらない、という部分で。モータースポーツなんて、そんなモンですからね。基本的に。
で、レースの外側で、誘拐だったり破壊工作(サボタージュって言ってますね)だったり、それを知恵と勇気と信頼と、あとは腕前で乗り越えていく、と。
そういうサスペンスの部分も、まぁ、楽しいですよ。テンポもいいし。変なポイントで裏切ったりしませんから。
主人公はどこまでも爽やかで、みたいな。
最後に勝つしね。必ず。ヒーローは勝つ、と。
そういうのもいいですよ。完全に振り切ってますから。こういう風に、真正面から語られると。
そういう意味では、同じくコミックが原作の「ダークナイト」とは、まったく正反対の方向に振っているワケなんだけど。でも、こちらはこちらで、いい作品だと思います。
「TOTAL」「ELF」のスポンサーに対するアレもばっちり。「マクドナルド」も、多分そうなんだけど、そこはフランス製なので、ちょっと捻ってますけどね。
それから、登場してくる車も、どれもクールなフォルムで、超クール。
あとは何だろうな・・・。
敵役が香港系(多分)、レースの途中クラッシュしてリタイアする車が日本車、アメリカ人の同僚レーサーは色仕掛けにすぐ落ちる、最後にフランス人の主人公たちの“家族的な絆”が強調される、などなどの、まぁ、フランス人の若い観客に媚びを売りまくる、という、政治性っつーか、その辺も結構ツボかな。分かりやすいし。
やるならこのくらいやりましょう、と。
そういう作品でした。
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