2013年11月8日金曜日

「評決」を観た

CS放送で、ポール・ニューマン主演、シドニー・ルメット監督の「評決」を観た。

たまたまだと思うんですが、この間の「その土曜日、7時58分」とは違うチャンネルでやってた「評決」を、せっかくなので、ルメット繋がりということで、ということで。


素晴らしいですね。さすがルメット。
さすがポール・ニューマン。


冒頭、力強いアングルで、P・ニューマンが、クールなイメージを真逆に裏切る、くたびれた老人役として登場して、と。
しばらく、彼の“墜ちっぷり”が描写されるワケですね。
仕事にあぶれ、仕方なしに、新聞の死亡欄を見て、その葬儀の場に「友人なんです」って嘘をついてもぐりこんで、名刺を渡して、という、どうしょうもない営業をしている老いた弁護士。
酒に溺れて、アル中で手が震えてグラスが持てなくて、口をテーブルの上のグラスに近づけて、という、強烈なカット。

いや、これは作品全編に言えることですけど、いちいちカットに力が入ってるワケですよね。このカットにはこういう“意味”!、という、監督の“意図”が、もうカット/ショットのひとつひとつにたぎってる。
そして、それに応えるP・ニューマン、ですね。

言わば“汚れ役”なワケですけど。
でも、そんな彼だからこそ、出来る役でもあるワケで。


それから、これはこの間の“遺作”を観た後だからこそのアレなんですけど、「黒味を強調した、シャープな画」っていうのは、もう昔からこの人のモノだったんだなぁ、と。
改めて、というか、昔の自分には気付けてなかったトコだよなぁ、というか。
人物の心の陰影、というか、暗闇、というか、そういう部分。
あるいは、いかに空間を切り取るか、という方法論の部分での、なんていうか、「ぼんやりとさせない」というか、「ふわっとした話じゃねーんだぞ」という意思表示、というか。
効いてますよねぇ。


それと、個人的に痺れたのが、シナリオ上に「階級/階層間の対立」を入れ込んでいる、というトコですね。
上層階級と、下層階級。支配階層と、弱者。
弁護士と、原告の夫婦。
あるいは、医師と看護師。
著名な医者と、町医者。
さらに、女性性、黒人。


同時に、上層階級に属する人々の、なんていうか、横の繋がりみたいなのも、描写されます。
街(ボストン)の有力弁護士事務所の中で交わされる、「どこの大学の、卒業時の順位は何番か」みたいなセリフ。
あるいは、公平であるハズの判事も、その階層故に公平さが揺れることに無自覚であることが描かれたり、教会の指導者(司教?)すらも、そうである、と。
エスタブリッシュメント。

そして、主人公自身にも、それから逃れることを許さないワケですね。
長距離列車から降りてきた、白髪の黒人の老人が「まさか医者だとは」思わないで見逃す主人公。

もう一つ、その「上層階級」である「法律の世界」に戻りたい、という、ブロンドの女性の“野心”、ですね。
その“野心”の為には、裏切りも辞さない、という、そういう世界。


医療過誤の犠牲になった妹の為に、という姉と、ブルーカラーのその夫。
仲間の小さなミスをかばって、供述拒否を貫く年配の看護婦。


法廷シーンのクライマックスが、ちょっと弱い気がしますが、逆にそこが、安易に扇情的に作らない、という、演出側の意図であり、弱点なのかなぁ、という感じですが、個人的に熱かったのが、閉廷後(クライマックスのすぐ後)に、法廷の警備員が、主人公に握手を求めてくる、というトコ。
かなりさりげない演出なんですけど、ここは良かったです。
彼も、この世界では、“弱者”なんですよねぇ。制服着て立ってますけど、やっぱり“ワーカー”なワケで、「弱者の為の正義」が成されたことに対する祝福と、ある種の感謝が、そこにあるワケで。

ま、いいですよね。そういうトコが。




やっぱりですねぇ。
頭では分かってるワケですよ。“メッセージ”のキーワードっていうのは。
“社会派”な映画、ということで言えば。

しかし、それらを、「映画」という「物語の装置」の中に、どう入れ込んでいくか。
織り込んでいくか。

ただセリフで語らせたりとか、感情の爆発を演じさせるとか、そういう方法だけじゃダメなワケですよね。
ギミック、フック、トピック、シークエンス、まぁ色んな言葉があると思いますけど、それらを駆使して、一つの完結するストーリーの中に落とし込むか。
あるいは、作品の外にある“世界”は決して解決してないし、続いているんだ、ということを言う為に、敢えて“完結”させず、例えば“余韻”という方法論で、それを伝えるのか。


語られるべき/暴かれるべき不正義があるとして、どう語るのか。
どこに不正義があるのか。どう歪んでいるか、どう歪められているのか。
その原因は何なのか、あるいは、その深い原因まで語る/問うべきなのか。


ただの法廷劇じゃないワケですよねぇ。
法廷劇として見れば、作りはものすごいシンプルですから。

医療過誤の話としても、それ自体は凄いシンプル。

しかし、と。


ルメットがP・ニューマンと撮れば、こうなる、という。
力強い、そしてシャープな、いい作品だと思います。ホントに。







2013年10月25日金曜日

「あの日の指輪を待つきみへ」を観た

シャーリー・マクレーン主演の「あの日の指輪を待つきみへ」を、NHKBSのプレミアムシネマで観た。


いやぁ。素晴らしい。
知らない作品でしたが、これは傑作でしょう。面白かったです。


冒頭、お葬式のシーンから始まるんですが、そこで、シャーリー・マクレーン演じる老女の夫が亡くなった、ということが明示されます。
彼女の、夫(と、夫の死)に対する、ヘンな感傷が描写されて、(夫が愛した)娘との関係性も、描かれます。
つまり、なんかうまくいってない。
それと、夫の戦友、というのが登場して、作劇のセオリー通り、老女と夫と戦友たちの過去が、語られ始める。

現在と過去の、2つのストーリーライン。

それからもう一つ、アメリカ・ミシガン州で進行する2つのストーリーとは別に、アイルランド・ベルファストを舞台にしたストーリーも、同時進行で進んでいきます。
キーワードは、IRA、爆弾テロ、母親の蒸発、失業、などなど。
こちらのストーリーは、世間知らずな青年と、消防士を引退した老人、青年の祖母、という登場人物。

ちなみに、“現在”は、1991年ということになってて、今から20年くらい前。作品が作られた時からだと、15年くらい前、という時制になります。
“過去”は、1941年。
太平洋戦争開戦の年で、作中でも真珠湾攻撃が描かれていて、それによってアメリカが参戦を決め、主人公たちも戦場へ赴くことになる、という。


で。

“現在”でシャーリー・マクレーンが演じる老女というのが、かなり偏屈な人物として描かれるんですね。
夫の死を素直に悲しむ様子が、どうも感じられない。
そして、娘とは、衝突を繰り返す。

対して、“過去”では、当然、同じ人物を別の女優さんが演じるワケですけど、その、“若い彼女”は、凄く明るくて(そして美人で)、天真爛漫、というかなんていうか、もう幸せいっぱい、という風に描かれるワケです。
なにより、彼女は、“マドンナ”なんです。みんなの、憧れの的。誰もが彼女を口説きたい、という、そういう存在。

で、当然ラブストーリーがそこでは語られて、軍服姿の仲間同士の中から、金髪のテディと、彼女は結ばれます。
テディの“戦友”は、他に2人いて、ジャックとチャック。

ここなんですよ。

冒頭から、そこで埋葬されているのは彼女の夫なワケですけど、「観る側」は、それは当然テディだ、と思わされるワケです。
ところが、物語が語られていくなかで、どうやら違うことが、「観る側」がだんだん分かってくる。
“過去”のストーリーが語れるなかで、それが分かってくるんですね。「観る側」が。


この「ストーリーの構造」が、本当に素晴らしい。
ただ“そう語る”だけじゃないんですね。
“構造”つまり「構築されたストーリーの骨組み」に寄りかかるだけじゃない。

「彼の家」「父親の家」「彼が建てた家」というセリフが、しきりと語られるんですけど、特にここがホントに巧いです。
その、小さな、木で建てられた家には、2階に寝室があって、そこは「娘の部屋」で、「夫婦の寝室」は、別にある、と。
しかし、「夫の死」を契機に、老女は、その「2階の寝室」に移る、という言うんですね。
“夫”と暮らした「夫婦の寝室」を捨てて、違う部屋に移る、と。

そして、父との“思い出”を母はないがしろにしている、と、“過去”のことを知らない娘は、反発する。

娘と母。

母の愛をあまり感じることができないまま、そして、両親の間の微妙な距離感を目の前にして育ってしまった彼女は、自分の恋愛にも、しっかりと踏み込むことができない。


娘の父親、つまり、老女の夫、つまり埋葬されているのは、チャックだった、と。
チャックは、終生妻を愛し、娘も愛した。


この悲恋のストーリー!


グッときちゃいましたよねぇ。


なんていうか、「心霊」とか「霊魂」とか、あとは「タイムスリップ」だとか、そういうギミックを使わなくても、こういうことが語れるんだ、と。
そういう感動が、個人的にあったんです。

それと、これは映画ならではの表現手法だと思うんですね。
語り口、というか、ストーリーの表現の方法が、というか。

死んだ夫、というのが、「観る側」が思ってたのとは違う、という。
ミスリードする、ということだと思うんですけど、トリック、というか、その方法論が、映画という表現の形態そのものと、なんか、結びついている、というか。



実は、テディは金髪で、チャックとジャックは、黒髪なんです。
娘も。
“マドンナ”の髪は、栗色。

そういうトコも、細かい。


あとは、やっぱり“家”のシークエンスですよねぇ。
ホントに感動的です。


うん。



で、ストーリー自体は、もうちょっと膨らみがあって、当然、ベルファストとミシガン州の田舎町とが繋がりあって、“過去”と“現在”を結ぶ色々なギミックがあって、ということなんですけど。

まさに戦争(内戦)状態にあったベルファスト(郊外)の市街の感じも描かれるんですが、実はこの辺は、アイルランドにおける宗教対立とかの予備知識がないと、難しい感じではありますが、まぁ、いちいち背景を全部説明するワケにもいかないワケで。
アメリカ人にとっては、このくらいで十分なのでしょう。


う~ん。。。



良かったなぁ。



いい作品でした。


勉強にもなったしね。

素晴らしい!


















2013年10月22日火曜日

「その土曜日、7時58分」を観た

えー、久しぶりの更新となってしまいまして・・・。

ワリと最近、住環境が劇的に変わりまして、BS/CSが観られるようになったんです。

今までは、地上波だけでしたから・・・。


で、チャンネルが多すぎて戸惑ったりとか、テレビ番組表が分かんないとか、そもそもチューナー(のリモコン)の使い方がよく分かんなかったとか、そういう時期も乗り越えまして。
(USBで繋げたHDDに予約録画する、なんてことも、出来るようになりました。)


で、と。


シドニー・ルメット監督の「その土曜日、7時58分」を、観ました。


そもそも監督が誰だっていうのもまったく知らない状態で観たんですが、イーサン・ホークが助演で出てます。なんだか情けない次男坊を好演。

イーサン・ホークはでも、アレですね。
いわゆる「ハリウッドのスター」になる道もあったと思うんだけど、こういう渋い役だったり、“汚れた”キャラクターを演じたりっていう、なんていうか、イイ感じのヤツだよな、というか。

“スター”であることには間違いなんですが、その、インディペンデント系やローバジェット作品に出て、自分のネームバリューで製作と集客にも貢献する、みたいな。

ハーヴェイ・カイテルやトミー・リー・ジョーンズに通じる、ね。
イイ感じですよね。



で。


ストーリーは、説明なく、一種の倒叙で始まります。
倒叙と、ループというか、時間を遡って繰り返したり、という。

とにかく全編に渡って“緊張感”でたぎる、という言い方がいいと思うんですけど、張り詰めているというよりも、たぎる。滾る。
テンションが高い、ということではないんですね。
ピンと張ってて、それがどんどん強くなる、というか。


で、倒叙(の一種)とループ(の一種)という“語り口”が、この“緊張感”をチャージしてるワケです。
ある一つの“結節点”(その時間が「7:58」ということです。8時直前、という。)があって、そこに向かって、何度も何度も繰り返される。
その“結節点”というのは、ある悲劇なんですね。
なので、“崩壊点”というか、“融点”というか、とにかく、そこで「壊れる」「崩壊する」。

つまり、「崩壊する」ことが分かっているポイントに向かって、何度も何度もストーリーがドライブされるワケです。
繰り返されるたびに、色々な背景が明かされる、という構造になってて、それが、もうどの角度から語られても最後には「崩壊する」ことが分かってるワケで。

これがですねぇ。
なんかもう、どうしょうもない気持ちになってくるんですよ。切ない感じだったり、憐情だったり、やるせない感じだったり。
まぁ、その感情はとにかく、“緊張感”をチャージしている。


もう一つ。
これは「映画という表現形態に因る話法」だと思うんですけど、例えば「覆面を被っている男」が、最初は誰だか分からない。
だけど、時間軸がループして改めて語られると、その男が誰だかが分かる。
で、そこで、観る側に対するミスリードが仕掛けられてるんですね。
これが巧いです。

いわゆる「最悪の結果」を知ってて、ちょっと「アレ?」みたいなのがあるんです。やや「救いがある結果」を想像してしまう、あるいは、期待してしまう。
しかし、みたいな。

この、もう一つの“語り口”のギミックが隠されていて、これも、“緊張感”をチャージしていく。

もちろん、黒味を強調した、シャープな質感の画もそうだし、余計な説明をしないシナリオもそうだし、セリフや演技のミニマリズムも、というか、とにかく全てが、“緊張感”を支えているんですね。


で、悲劇とその背景・意味を明かしていくことで、父と息子、兄と弟を巡る、これはある種の定番とも言えるんだけど、そういうストーリーを、物凄いシンプルに語っていきます。

2人の息子を得た父。なんかいつまでたっても情けない弟。
弟を愛する父に、心の中で静かに反抗心を燻らせてきた兄。

熾烈な競争社会(であるアメリカ社会)が強いるマチズムを、兄は、虚勢として身に纏っているワケです。
虚勢を張る自分の心を、高級アパートの一室で嗜むヘロインで癒し、つまり、自分の家庭ですらない、という。

いやもうホントに、どんどん奈落の下の方下の方に、話が進んでいく。

悲劇の終着点に向かって。



いやホントに。



どこまでいっても救いのない話なんですけど、でも、映画としては、素晴らしいです。ホントに。
こういう作品っていうのは、「映画にできること」を少しずつ拡張している、という気がするんですよねぇ。

まぁ、そう言葉にしてしまうと、なんか陳腐な感想になってしまうんで、ちょっとアレですけど。



でもまぁ、そういうことです。
うん。











2013年1月23日水曜日

「ロンドン・ヒート」を観た

渋谷の、かつてシネカノンの劇場だった、ヒューマントラストシネマで、「ロンドン・ヒート」を観た。

なんでも「未体験ゾーンの映画たち2013」という特集上映だそうで、その中のひとつ、です。
テアトルシネマの会員割引で、1000円。(一般の値段も、1200円でそうで、良心的な価格になっております。)


さて。
原題は「The Sweeney」。警察の特殊部隊みたい組織の名称だそうで(SWATみたいなモンかな?)、そういうテレビシリーズが昔あって、それのリメイク、ということでもあるみたいです。

邦題はズバリ、パチーノデニーロの名作「ヒート」からの流用と思われまして、実際に作中でも、「ヒート」を明らかに意識した、ライフルと強奪したカネが入ったバッグを背負った犯人たちとの、街中での銃撃戦のシークエンスがあります。(長回しではない)


この作品の面白いポイントは、かなりアメリカ(ハリウッド)ナイズされた製作スタイルでありながら、舞台がロンドンであり、なおかつそれをとても巧く活かしている、という部分。
市街のゴミゴミした感じとか、雰囲気が凄い出てて、良いです。

あと具体的には、画面の色味のトーンとして、青味が強調されて、それが「いかにもロンドンっぽい」という感じで。
(ちなみに、この色味の感じは、「CSI:NY」でも採用されていて、個人的には好きなテイストでもあるんですけど。)


もう一つポイントは、俳優陣のキャラ立ちが物凄いくっきりしてて、それが、ストーリーを追っていくのに、意外と貢献している、というか。
結構登場人物が多いんですよ。関係も、何気に複雑だし。

その部分を、割と明快なキャラ立ちで、ザクザクッと見せてくれる。
良いと思いました。

主人公の、チームのリーダーなんて、見た目の、というか、頭部と胴体のバランスに因る“異物感”とか、白いスニーカーとか、もう明らかにヘンなんですけど、でも、それぐらいでちょうどいいか、みたいな感じに段々なってきたりして。

ロシュディ・ゼムもそうですけど、そのくらいの方がいいんでしょうね。



で。
ストーリーの内容は、まず一つ目のラインが、ある強盗事件が起きて、その事件の犯人を追う、というもの。
意外とこのシークエンスの“謎解き”みたいなのが面白くて、良く出来てるな、というか、ここも作品に引き込まれる一つの要素でもありました。

もう一つが、警察内部の、内務監査とのやり取り。
これには、チーム内の人間関係(不倫云々)みたいなのも絡んで、こちらも、魅力的なキャラクターの力もあって、ストーリー上の推進力は、強いです。

犯罪者との闘い、内務監査との対立、(主人公の恋愛も含んだ)チーム内の人間関係、という、三つのラインが、絡み合いながら、進んでいく。

この三つのラインが、とても「効率よく」存在している。

それぞれのラインが、独自にストーリーをドライブしていく力を持っているワケですけど、そこに、結構派手なアクションも盛り込まれていて、テンポよく、グイグイ進んでいきます。

面白いです。



実はちょこちょこと粗みたいなのもあったりするんですが、まぁ、力技というか、勢いでグイグイ持っていってしまう、と。
それでいいんですよ。この作品は。



うん。



あと、凄い派手なんですよ。とにかく。
カネがかかってる。

セットなんか凝っててオシャレだし、車なんかバンバン潰すしひっくり返すし、図書館の中のシーンなんて、蔵書がバカバカぶっ飛ぶしで。
そういう部分も堪能できます。



ヒロインが美形でセクシー度の高さが素晴らしい、というのもポイント。



という感じで、ただの“羅列”な感想になってしまいましたが(あと、擬音が多い)、とにかく大満足。

スクリーンが小さなシアターだったのが、ちょっと心残りでしたが、こういう、しっかりと手間隙かけられたアクション作品を観れたのは、良かったですね。ホントに。



機会があれば、DVDででも、ぜひ。
お薦めです。







2012年12月18日火曜日

「007 スカイフォール」を観た

奇しくも「009」の翌日に、有楽町の日劇の大スクリーンで、「007 スカイフォール」を観る。


いやぁ、新作ですよ。ダブルオーセブン。
日劇で観ちゃいましたよ。
(前日に引き続き)ウェブで予約して。


スカイフォール。

単語としては、「空が落ちる」とか、そういう意味合いなハズで、「どんな意味なんだ?」ってトコも含めて、まぁ、かなりテンションが上がった状態で劇場の椅子に座りまして。

クソ長い予告編を踏まえましての、本編。

音がデカい!


まぁ、そこがいいんですけど。


オープニングの、テーマ曲は、歌もアレンジも完璧です!



と、いう感じで、まぁ、よだれを垂らしたイヌ状態で、完全にスクリーンに釘付け・・・。


冷静じゃいられないッスよねぇ。
ボンドガールは(敵味方どっちも)セクシーで最高だし・・・。





本作のテーマは、ずばり「過去」。
そして「垂直落下」。

ボンドはビシビシ落ちます。水の中に。


リニューアル第一弾だった前々作では、「若いボンド」っていうのがキーワードで、そこが注目されたりして、当然支持もされたワケですけど、今作は、「老い」に直面します。

それは、「過去の自分」と対峙する、ということでもあるんですけど、とりあえずそれはさておき。



ビーチリゾートでの“隠棲”から、突如ロンドンに戻ってきたボンドが、再び“ライセンス”を得るために、というシークエンスは、ホントにゾクゾクしましたねぇ。
クールです。

上司Mとのやりとり。

お互い、プロ同士なワケです。
私情を挟まない。プロとして、非情に徹する。

しかし、お互いに対する“情”が見え隠れするワケです。

孤児であるボンド。

そのボンドが、敬愛するマダムM。


ボンドは、Mを詰るワケですよね。詰(なじ)りたい。責めたいワケです。
Mは、謝りたい。
でも、2人とも、「プロである」という矜持を持っている。

そこで揺れ動く、と。
感情が。

いいですよねぇ。2人とも、巧い。
シナリオも巧いです。ホントに。


そして、そうです、Mです。
本作の主人公は、実はボンド=ダニエル・クレイグではなく、Mですよね。

Mの“引退”を記念する作品でもある、という。


思うに、彼女のシリーズ降板というのが、製作の準備段階で決まっていた、と。
で、彼女(ジュディ・リンチ)の“花道”としてのストーリーを書いた、と。

そういうことなワケですよねぇ。

彼女は、シリーズのリニューアルにあたって、ほぼ唯一、前シリーズから続いての起用なワケで、つまり、彼女の存在・存在感っていうのは、シリーズの製作者たちにとっても、とても重要なモノだったワケで。




「老い」を理由に、引退を迫られるM。
Mはしかし、断るワケですが、そこに、「委員長」という肩書きの優男が現れるワケです。

こいつがねぇ。

粋ですよねぇ。

美味しいトコ持ってくんですよ。
優男が。

ホントに巧いこと伏線を回収しやがって。
優男が。

これはホントに、シナリオの勝利ですよねぇ。


Mの“最期”を描く、と。

そこに向かって、色んなトピックを散りばめて、クライマックスに、収斂させていく。
こういう作劇法の、一つのお手本ですよねぇ。



Mは、M自身の“過去”に牙を剥かれるワケです。

ボンドの前任者。

敵は、執拗にMを狙う。

そして、まさに「Mを護る」ために闘うボンド。



ここで、ポイントは、“闘い”が「個人的な動機」に因っている、という部分ですね。
敵はM本人に執着し、ボンドもまさに、Mを護る為に闘う。

何気に、好き嫌いがあるかもしれないストーリー展開ではあるんですが、ただ、“プロとしての意識”と“個人的な感傷”との相克、みたいな、こういうストーリーならではの“面白み”みたいなのもちゃんとある、という意味では、これはこれで、良いんじゃないかな、と。


そして、そのボンドも、自分の過去と対峙をします。
“ライセンス”再給付のためのテストも、過去の自分との比較、ということではそうだし、なにより、故郷に帰るワケですよね。

アンティークみたいな車に乗って。(アストン・マーティン!)


いや、アストンマーチン出てきたときは、ホントに仰け反っちゃいましたけどねぇ。
ホントに。
こんなフック、ありか、と。


で、その「自慢の車」に、Mを載せて、自分の生まれ故郷に向かって走っていくワケです。
まるで、恋人を連れて行くかのように!


“過去”に遡るボンド。



ストーリー中には、Qも登場するワケですが、そのシークエンスでも、テクノロジーに関して、懐古趣味的な、「昔はな~」みたいに鼻白む、みたいなやり取りもあって。
そこでも、「現在と過去」の対比/対立の描写があるワケですけど。



その、故郷の地名が、スコットランドの、スカイフォール。



そして。



そして!



Mは死に、ボンドは、ロンドンに帰ってくる。




ビルの屋上に屹立して、街を見下ろしているのか、あるいは、風に揺れるユニオン・ジャックを見上げているのか。
あるいは、物思いに耽るボンドを、ユニオン・ジャックが見下ろしているのか。



そして!



ラストにびっくり!


なにあの「to be contined」のアレ!



ズルいでしょ!



アレをあそこでっていうのは、ズルいでしょ!



だって、オープニングで、ボンドは1回ライフルで撃たれてるじゃん!



なのに!



なのに!!




ガンバレル!






上手い!



ズルい!




いや、ホントに。




やられちゃった、と。




そういう作品ですよねぇ。




まぁ、実は、シナリオの巧さとは別に、アクションシーンがワリと平板だったり、敵役の描写が物足りなかったり(アイツなら、もっと色々あったでしょ! もったいない!)、ちょっと不満な部分はあるはあるんですけど、結局のところ、「今回はMの話なんだな」ということで、半ば無理やり納得させられちゃう、という、ね。

いや、それで全然いいんですけどね。



面白かったんで。



うん。



というワケで、早くも次作に期待、という感じです。
大期待。



楽しみです。



よい作品でした。
でわ。







2012年11月20日火曜日

「虚空の鎮魂歌」を観た


銀座テアトルのネオフレンチノワール特集上映の三作目、「虚空の鎮魂歌」を、(もちろん)銀座テアトルシネマで観る。



主人公はまたしても、ロシュディ・ゼムでした。

で、マルセイユの捜査官であるその主人公が、武器の密輸事件の捜査で、犯人グループを追ってパリへ赴くことになるんだけど、パリには、その主人公の別れた奥さんとその娘がいて、というのが、(かなり)ざっくりとしたメインのストーリーライン。

で、その娘は、父と同じく刑事で、ただし配属は麻薬の捜査チームで、さらにそのチームのリーダーが、汚職警官で、という。

この、設定の妙が、ホントにシナリオの勝利というか、諸々の「面白いストーリーである条件」にとても上手くハマってる、という感じなんですね。
すごい良かったです。面白かった。


ノワールものの王道である、主人公が「引き裂かれる」シチュエーション。
何かと何かに。

この作品の主人公も、「何かと何か」に心を引き裂かれながら、つまり、とにかくモヤモヤと心の中に闇と葛藤と苦悩を抱えながら、捜査を進めていくワケです。


捜査の苦悩。自分と娘、つまり家族との苦悩。
捜査陣と、捜査の対象である犯罪組織との対立。自分と家族の対立。捜査陣の中での対立。
部下の喪失、娘との、失敗が約束されている会話、分かれた妻との関係、上司との関係。
もう、モヤモヤしっぱなし。


さらに、娘が所属する麻薬捜査のチームのシークエンスが絡んでくる。
汚職・腐敗警官である、チームのリーダー。
しかし、なんと娘は、家族持ちであるそのリーダーと、不倫している、という。
確かに、父親不在の家庭で育った女の子は、父親像を演じてくれる年の離れた男に惹かれる(もちろん、逆もあるワケですけど)、という、まぁ、その設定自体は作劇上のセオリー通りのアレなワケなんですけど、これがですねぇ。
上手いワケですよ。

演じる俳優さんが放つ存在感がそうさせているのももちろんあるんですけど、この悪役然としたキャラクターが、ホントに効いてるんですよね。
悪い男なワケです。
しかし、カリスマ性がある。

対して、主人公である父親も、そんなに「良い人間」ではない。
平気で情報屋を見捨てるし、部下も死なせてしまう。そもそも、母と娘だって、捨ててるワケで。

そういう、苦悩やらなんやらを満載しながら、捜査は続いていき、(ワリとあっさり)犯人を捕捉するところまでいく。


さらに、その主人公のラインに加えて、主人公にとっては“悩みの種”の一つになるんだけど、娘は娘で、かなり切実な、いわゆるアイデンティティ・クライシスみたいなのを抱えているワケです。
そこを、主人公のストーリーと平行していく形で、こっちはこっちでちゃんと描いていく。

彼女は彼女で、悩みを抱えているワケですね。父への反発。反発しながらも、同じ仕事を選んでいる自分。ただし、捜査官としては、そんなに有能ではない。そういう評価を受けているという自覚もある。
そんな悩みを、父へはやっぱり反発という形でしか表現できない。


父と娘は、まぁ、やっぱりそれでも、だんだんと近づいていくワケですけど、それが、「捜査上の必要性」が作用して、ということになっているんですね。
ここが上手い。
父娘の絆の再構築と、捜査の進展が、巧いこと重なっているワケです。
重なっている、というより、絡み合っている。

そういう形で、ストーリーが進行していくワケですね。



で、と。


当然クライマックに向けて、犯人を追い込んでいくワケですが、という、ね。



良かったです。
ホントに上手。




あと、ラストの解釈。

これは、まぁ、邦題が「虚空の鎮魂歌」ですから、それで言っちゃってる感じというか、要するにそういうことなんですけど、これは、もう一つ解釈の方法があって。
(いや、あくまで個人的な解釈ですけど)

それは、あの、ラストの、「峠のベンチ」っていうのは、情報屋と密かに会った場所だったワケです。
だけど物語中で、その情報屋は、いなくなってしまうワケですね。

つまり、「坂を登っていった場所」である「峠のベンチ」は、「いなくなってしまった相手」を追悼する、という場面として設定されているワケです。

「坂を登る」というのは、「困難を超える」ことのメタファーなワケですけど、坂を登ったその場所に、「かつてそこで会った人間」は、最後の場面では、待っていない。
もう居ないからです。

だから、ベンチには独りで座るしかない。
「虚空の鎮魂歌」とは、まさのこの状態を表す言葉なワケですけど。



ま、解釈の仕方は人それぞれあるとは思うので、それはさておき。




派手なアクションがあるワケでもないのに、ずっと緊張感を維持しながらストーリーを引っ張っていく、という、ホントにシナリオの強さが感じされる、良い作品だと思いました。


機会があれば、ぜひどうぞ。





2012年10月20日土曜日

「そして友よ、静かに死ね」を観た

銀座テアトルで、「そして友よ、静かに死ね」を観た。


えー、職場が恵比寿から東京駅の駅ビルに変わりまして、その、東京の“東側”に生活圏が変わった、というワケで、映画を観るフィールドも変えるか、と。
せっかくだから、と。

というワケでの、銀座テアトルなワケですけど。


まぁ、老舗のミニシアターで、それこそ「ユージュアル・サスペクツ」とかここで観たりとか、要するにお世話になってた劇場ではあるんですが、その銀座テアトルの今年の秋のセレクトが、ネオ・フレンチ・ノワールだ、ということで。


「そして友よ、静かに死ね」という、まぁ、邦題からして気合入り過ぎですけど、原題はちょっとややこしくて、英語だと「A Gang Story」。「あるギャングの物語」って感じでしょうか。
で、フランス語だと、「Les Lyonnais」。
「リヨン団」ぐらいの意味だと思いますけど、これは、実在のギャンググループの名前なんだそうです。

つまり、主人公とその仲間っていうのは、実在してて、という、そういう話。

「仁義なき戦い」も、そうでしたね。



という前置きはさておき。
フレンチ・ノワール。


良かったです。
力作、かつ、良作。



まず、ストーリーの構成が良かった。
緻密って程じゃないんだけど、時間軸を上手に操って、そこでグッとこさせる、という、まぁ、作家の腕で惹きつける、ということだと思うんですけど、個人的にもまずそこの巧さ、ですね。

時制で言うと、現在進行形の時間軸に、過去の回想が挟み込まれる、と。
そこで、“現在”にも続く「仲間の絆」の発端や過程が描かれるワケですね。

この作品では、主人公が実在で、というトピックがあるので、ここで描かれる“過去”が、まさに「リアルな話」ということになるワケですけど、俺は、別にフランス人でもないんで、そこら辺の“記憶”を共有しているとか、そういう“前提”がないワケで、そこはちょっとアレなんですが、それでも十分魅力的なストーリーなワケです。
「過去の話」も。
とても魅力的な「ギャングたちの話」が、回想される過去として語られていく、と。


乱暴に言ってしまうと、「過去の話」と「現在の話」の、二つの(魅力的な)ストーリーが同時に語られていく、と同時に、両者が絡み合っている、という構成になってて。
(ま、こういうストーリーの形態をとる以上、それは当然なワケですけど。)


ここで、ポイントが一つあって、それは、主人公たちを追い込む側(の、一つ)である、刑事たちの中に、「過去」を知ってて、それを主人公に語り出す、というトコで。

「過去の語り手」が増えるワケです。

ここが良いですよねぇ。
巧い。


この、敵方のキャラクターが語り出す、というポイントが起点になって、ストーリーの角度が変わるワケです。
実際、このキャラクターは、最後のシークエンスで物凄い重要な役割を担っていて、なるほど、と。

呻っちゃうワケですよねぇ。


もちろん、作品を観てる時には、そんな客観的な観方はしてなくって、完全にストーリーに惹きこまれちゃってて、観終わった後に呻っちゃうワケですけど。



この手の映画っていうのは、要するに「誰が裏切り者なのか?」という話なワケです。
同時に「いかに友情を貫くか」「誰が(裏切り者ではなく)本当の友情の持ち主なのか」ということを語るワケです。


そして、この気合入り過ぎの邦題が、実は“ネタバレ”ぐらい語り過ぎちゃってる、というか、タイトルで言い過ぎちゃってる、というか、ホントの最後のクライマックスのトコを言っちゃってる感じになってて、ピンときちゃう人はきちゃうと思うんですけど、とりあえずそれはさておき。

要するに、“逆側”に居た、と。
自分に対する敬意と友情を貫いてくれる人間が、仲間だと思っていた側ではなく、自分を追う側に居た、と。

そういうクライマックスなワケですけど。


ここが良いですよねぇ。


ホントに良かった。



過去と現在とで、カメラワークの質も違った感じになってたり、もちろん画の質感を変えたりしてて、その辺の塩梅も上手だったし。

俳優陣の存在感も良かったし、なにより、画面全体に、おカネがかかってる、というか、とにかく画に説得力がある、というか。

変にリアルを強調したりしてないんですね。
実話だからどうこう、とか、リアル感を狙ってどうこう、とか、そういう感じはあんまりしない。

ただ、エッジが効いてる部分もある、というか、オッと思うような編集の仕方をしてたりして、そういう細かい部分でも、グッときました。


もう一つ。
現在のストーリーを語る部分でも、カットバックが使われていて、ここも良かったです。
冒頭、オープニングに幾つか印象的なカットが出てくるんですが、この使い方も良かった。
巧いですよ。ホントに。
グッと来ます。それだけで。




いや、ヘタしたらアメリカのギャング映画の単なる焼き直しですからねぇ。
「リヨン団」なんて。

だけど、この「実在の人物」の話を、きっちりモダンなノワールに造り上げる、という、作り手の“豪腕”というか、そういうのを強く感じる作品、ですね。


シナリオ、ディレクション、俳優陣の存在感、編集。
映画を構成するあらゆる要素が、すべて、作品に対して力強く作用している、という、そういう力作だと思います。



いや、しかし、フランス産のノワールは、ホントに最近凄いなぁ。

最近ホントに、何本も観てますもんねぇ。



いいです。ホントに。