2009年6月18日木曜日

CSI「誰も知らない存在」を観る

CSIシーズン6の、「誰も知らない存在」というエピソードを観る。


重厚な内容で、面白かった。

CSIの“無印”は、舞台がラスベガスってことも関係してると思うんだけど、人間が本来抱えている闇、というか、物凄いスケールの小さな“悪意”とか“弱み”とか“醜さ”とか、そういう部分がフレームアップされたエピソードが多い気がするんですね。

「NY」は、ニューヨークという世界一の大都市に飲み込まれちゃったりだとか、踏み潰されちゃったとか、あとは、上流階級と貧困層、とか、都市ならではの犯罪とか動機だとかが描かれてて、もちろんそっちも大好きなんですけど、ラスベガスのシリーズとは、ちょっとテイストが違ってて。

「マイアミ」は、これはまた全然違う雰囲気で、“楽園”のダークサイド、というか、麻薬シンジケートという巨大な敵である犯罪組織との戦いが描かれたりして、それはそれで、という感じで。


で。
今回のエピソード、原題は「Werewolves」という、これは、狼男のことですね。
さらに、複数形になってることもポイント。


事件は、ある匿名の通報電話があり、小さな家で、体毛が異常に濃い男性の死体が発見される、と。
それはなんと、銀製の弾丸で撃たれていた、という。

オープニングは、ホラーみたいなタッチで始まるんですね。電話ボックスで話している通報者の姿を映すんですけど、ちょっと怖い感じで。

で、被害者は、遺伝性の多毛症という病気だった、ということが説明されて、彼の周辺の人物の捜査が行われて、同時に、通報があった電話ボックスが発見されて、鑑識捜査もそこであって。
で、そこからも、体毛が発見されて。

被害者には、双子の妹がいる、ということが分かるんですね(これが、複数形の意味)。

被害者宅をもう一度捜索すると、なんと、リビングの一番奥の壁の向こうに、隠し部屋を発見するんです。女性捜査官(鑑識官?)が。
隠し部屋の中には、全身毛で覆われている、妹が居て。
彼女は、兄が殺された瞬間もそこにいて、殺されたあとも、ずっとその中に潜んでいたんです。

彼女は、その外見(狼男のように体毛で覆われている)から、ずっと部屋に閉じこもって生きてきてる、という設定で。
で、彼女は殺された被害者とは、双子の兄妹なワケですけど、当然、両親に付いても語られて。

父親は、双子が生まれてからすぐに、彼らを捨てて家を出て行ってしまい、母親はある時、交通事故にあった、という嘘をついて、家を出て行く。
残された兄妹は、2人だけで生きてきたんだけど、妹は、その存在を周囲にも知られてなかったんですね。多毛症の症状が比較的軽い兄は、ワリと日常生活を普通に営んできたんだけど、ずっと妹を家の中に匿ってて。

で、結局犯人は、被害者の婚約者の兄、という人物で、彼は、被害者の“親友”でもあって。
彼が自分の妹を被害者に紹介した、ということになってて。

しかし、その彼が、自分で“銀の弾丸”を自作して、それで“親友”の胸を撃った、と。


ポイントは、女性の捜査官が2人登場してくるんですけど、彼女たちは2人とも、見事な金髪なんですね。
これは、敢えて、キャストの中の、金髪の2人をシナリオ上でピックアップして並べてるんです。(黒髪の女性捜査官もいるんですけど、彼女は今回はあまり活躍しません)
妹との対比で。

そして、被害者の婚約者、というのも、同じような、きれいなブロンズで。


そういう諸々の仕掛けが、妹の悲劇性を高めている、という。

で、捜査によって、母親は居場所が明かされ、事情が説明される。
そしてラストで、一度は捨てた妹のもとに、母親がやってくるんですね。



う~ん、と。

長々とストーリーを説明してしまいましたが。



なんつーか…。


導入は、オカルチックな雰囲気なんですよ。
で、中盤は、いつもの“科学捜査班”で、いわゆる“科学捜査”が行われる。狼男のような外見も、「それは遺伝性の病気である」という説明がなされて、それで、最初のオカルト・ホラーテイストが否定されて。

で、終盤で、“動機”や背景が説明されて、人間の悪意や弱さや身勝手さや、そういうモノが殺人を生んだのだ、みたいな謎解きがあって。
ここでは、科学的・合理的な“理屈”が、人間の“情念”みたいなのを暴く、みたいになってるんですね。
同時に、これはシリーズに通低するテーマなんだけど、 “理屈”はしかし、“情念”みたいなのを止めることは出来ない、という。暴いたり、対抗したりは出来るんだけど、人を動かすこと自体は、“理屈”(論理)では出来ない。

基本的に、この「出来ない」という部分のほろ苦さが、作品の奥行きになってるんですけど、ここでは、最後に母親が帰ってくるんです。
つまり、ここで人間性の回復が描かれている。

そこは、捜査官たちには関係ない部分で、母親の自発的に、自らの罪を悔い、過ちを回復しようとしている、ということが語られていて。


これは、なかなかないですよねぇ。
非常に優れたシナリオじゃないかな、と。

そう思ったんです。



いかがでしょうか?

2009年6月17日水曜日

「ママの遺したラヴソング」を観る

「バリ・シネ」で、スカーレット・ヨハンソンとジョン・トラボルタが主演の、「ママの遺したラヴソング」を観る。


書き忘れてた感想です。


実は、観ててあんまり面白い作品じゃなかったんですよね。
個人的には、すげー嫌いなタイプの作品。

だけど、ラス前の「実は、2人は~」というのが判明してからの、2人の会話のシーンがすげー良くって、「あ、いいかも」という感じで。


彼女は、母親の存在やその愛を知らずに育って、まぁ、それで“不良”になっちゃった、という役を演じてるんですね。18歳とか、そういう年齢の役。まだ高校生で。

で、ラス前の2人の会話で、彼女はその欠落感を埋めることになるんですが、その会話の感じが、すげー良かった、と。
“幼い頃の記憶”とか、そういうキーワードで。

「母親に愛されていた自分」の記憶、というのを、自分で色々作ってた(想像していた)、という。
そういう“寂しさ”を分かってくれ、と。
だけど、その“捏造した記憶#”も、まるっきり虚構でもなくって、初めてのクラスメートとのデートでライブハウスに行ったときに、チラッと、似たような記憶が浮かび上がってきたりして。


この、「アイデンティティー」は記憶によって構築されているのだ、というのは、実は個人的に、結構気に入ってる題材でもあって(逆に、よく使われる題材でもあるんですけどね)。

で、ま、18歳の女の子が発する言葉としては、かなりのリアリティーがある、というか、彼女なりの必死に叫びなんだろうな、という、説得力を感じたワケです。

あのセリフは、なかなか書けません。



それから、もう一つ気になったのは、河の堤防を使ったショットですね。
この作品の舞台は、多分、カトリーナで沈没しちゃったのと同じ地帯なんです。
そういう背景がこっちにあるので、その、堤防の近くに住むホワイト・トラッシュたち、というのには、結構リアリティーを感じたんですけど、それはさておき。

堤防の手前の風景を撮る時に、堤防越しに、河を進む船の煙突が見えてたりするんですね。
これは結構面白くって。
土手の上を歩くショットもあるんですけど、そのショットでは、河の対岸に、大きな工場とかが映ってるんですね。
で、土手を、降りてくると、そういうのが見えなくなる。
見えなくなって、そこには、酔っ払いたちが車座になって歌を歌ったりしている場所(キャンピングカーのトレーラーみたいなの)があって。
そこが「掃き溜め」である、ということが、まぁ、意図的ではないのかもしれないんですけど、なにげに描かれてたりして。

河を進む船がある、というのは、「そこには働いている人がいる」という表現としてもあり得るワケですよね。
それを、昼間から飲んだくれている人たちとを、同時に描写する、みたいな。

ま、そんな意図はなかったかもしれませんけどね。



あ、それから、この作品でも、トラボルタは踊ってます。
ただし、その後に、かなりキツいシーンがあって、そこでもセリフは、切れ味があって良かった。


そう考えると、セリフの良さを味わう作品なのかもしれませんね。

作品自体は、すげー低予算なんですけど、でも、セリフには、そんなこと関係ないですからね。



というワケで、そういう作品でした、と。


2009年6月11日木曜日

なんかグッときたので

新聞に、トルコ出身の(クラシック畑の)ピアニストだという、ファジル・サイさんという方のインタビューが載ってまして。

まぁ、映画とはあんまり関係のない内容かもしれませんが、なんか、なんとなくグッときたので、ご紹介。


クラシック音楽の演奏から個性がなくなっている。最近では、本来、即興的に独奏される協奏曲のカデンツァも、演奏全体の解釈も、他人任せになっている。これは間違っている。クラシックのピアニストがいくら技巧的に演奏しても、それだけではまったく興味を感じない
ハイドンのピアノ曲は、演奏技術的にはとても簡単で、8歳の子どもでも、何曲かは演奏できる。しかし、内面から演奏するには、とてもたくさんの人生の経験、感情といったものがないと難しい。3,4分で映画のサウンドトラックのように「物語」を作らないといけない。
自らの「内なる声」を取り出し、楽器に伝えるというのが、作曲でも演奏でも、音楽のとるべき方向なのだ。クラシックのピアニストの大半は今日、そうした方向性を持っていない。ジャズピアニストのキース・ジャレットを例に出せば、彼のピアノの音にどれだけの感情がこもっていることか。まるで「歌っている」ようだ。音楽の内面が演奏されているから、彼のピアノは人間の声のように聞こえる。
ベートーベンやモーツァルトでさえも、即興的な作曲家だった。シューマンは、毎日のように即興演奏を自分の生徒に聴かせていた。彼らは当時、キース・ジャレットのように(自分の曲を)演奏したはずだ。

作曲は常に「進化」しなければならない、という観念がある。
80年代から90年代、自分が10代から20代の頃、多くの若い作曲家たちは、自問自答する形で「次は何だ」と考えた。
ある意味、(作曲の)技術的な発展という意味では「歴史の終わり」だったのだ。
作曲とは「湧き出るものを取り出す」作業だ。技術的発展がエモーションの高まりを伴わないのならば、それは音楽ではないと思う。


「技術的な発展に、エモーションが伴ってなければ、それは音楽ではないと思う」と。


う~ん。

グッときた感じ。


エモーションね。
この人は、「エモーションの高まり」こそが「内なる声」であり、「個性」だ、ということみたいだけど。


にゃるほどねぇ。
いい言葉だ。

2009年6月5日金曜日

「逃亡地帯」を観る

またしても午後のロードショーで(今週は全部観ちった!)、アーサー・ペン監督の「逃亡地帯」を観る。 いやぁ、傑作。 これはぶっちゃけ、DVDを買いたいです。手元に置いておいて、また観直したい。 群像劇ってことで、主演はネームバリューから言ってマーロン・ブランドってことだと思うんですけど、逃亡犯役のロバート・レッドフォードも輝きを放ってるし、ジェーン・フォンダも出てるし、ということで、いま観ると何気にオールスターって感じ。 この作品は1966年に公開、ということで、アーサー師は翌年に、“ボニーとクライド”の逃避行劇「俺たちに明日はない」を、レッドフォードは3年後に、マーロン・ブランドではなくポール・ニューマンと組んで「明日に向かって撃て」で、国外逃亡を果たす、という。 (ちなみに、ジェーンの弟のピーターの「イージー・ライダー」も、この3年後の作品) 個人的には、「俺たちに~」と対になってる作品なのかなぁ、という感じ。 ボニーとクライドという、逃亡犯を描くのが「俺たちに~」なワケですが、この作品では、その逃亡犯側の内面(というか、動機とか個人史というか、要するに、キャラクターを深く掘り下げて描く、ということ)が殆ど語られてなくって、いわゆる“状況証拠”だけ、という感じで。 「ツイてなかったんだよ。俺の人生は」ってことぐらいしか本人も語りませんし。 この作品は、レッドフォードの脱獄犯が目指すホームタウン(故郷の小さな町)に、まるで遠隔操作のように引きこしてしまう“波風”を描いていて、ま、裏表になってる、ということですね。 で。作品の年代史的なポジションの話はこのくらいにして、作品本体の感想を。 まず、レッドフォードがひたすら逃げる姿と、それとは全然オーバーラップしないで、彼をのちに“迎え入れる”町の様子を描く、前半部分が凄い。 この町の様子っていうのが結構エグくて、退廃的なカントリータウン、という感じで、まぁ、現代性がある、と言うと言い方が変ですが、要するに“人間は全然変わってない”ってことなんですけど、そんな気持ちにもさせるエグ味があります。 まぁ、その、後世に語りかける、というのはアーサー師の意図するところではなくって、これは、逃げ続ける(ちなみに、ここでは直接的な追っ手の姿は描写されません。なので、レッドフォードは“見えない敵”から逃げているように見えます)レッドフォードの姿との対比が行われている、と。 退廃的な、自己満足的な、閉塞的な、そして閉鎖的な、町の様子と、その町の“アッパークラス”の生活用の様子、そしてアッパークラスの生活に嫉妬する“その下の階層”の愚痴も描かれ、そこにさらに、人種差別も描かれていて。 要するに、腐り切ってるワケですね。 で、脱獄犯のニュースによって、その“腐ってる部分”が炙り出されてくる、という。 この感じは、ホントにキケン。 銀行に美人の奥さんがやってきて、それは旦那が銀行に勤めてるからなんだけど、実は旦那の同僚と堂々と不倫してる関係でもあって、なんていうか、そういう“薄汚さ”というか、“腐ってる人間”を描く、と。真正面から。 ジェーン・フォンダには恋人がいて、彼は地元で一番の富豪で名士(銀行の頭取でもあるんだけど)のジュニアで、後継者として育てられているんだけど、彼にも妻がいて。 その妻とは、“契約を結んでいる”上っ面の仮面夫婦で、そういうことに気付いてないのは、親父の富豪だけで、とか。 その中に、保安官として、マーロン・ブランドがいるんですね。 アメリカの司法機関の中で、この保安官制度っていうのは少し面白くって(というより、日本にはない独特のシステムで)、要するに、かなり独立した存在だ、ということなんですね。 “自分の城”を構えている感じ。 あまり「組織の人間」ってことを感じさせない存在にしてて、で、それがこの作品では欠かせない要素になってて。 つまり、極めてインディペンデントな存在として描かれている。 また、マーロン・ブランドがハマってるんですよね。これが。 堂々と黒人を庇う、とか、自分なりの“正義”の論理、倫理観、基準でもって、脱獄犯とも向かい合おうとする、とか、そういう人物。 しかもその結果、いわゆる“町の人間”たちに私刑(リンチ)をくらったりしてしまう、という。 このエグ味! デヴィッド・フィンチャーとかブライアン・シンガーとかにリメイクして欲しいっス。現代に置き換えて。 全然成立しちゃうでしょう。 人間の暗部なんて、全然変わってないのだ、ということで。 そして、衝撃のラスト。 これはホントにびっくり。 あ、あと、セリフがクールだったなぁ。 「店に戻って、ウィスキーをもっと飲んで、他人の女房と寝ろよ」 「今言ったことですよ。あなたは恩恵を押し付けて、感謝されることを強要している」 「俺が真実とか正義とかいうやつを信じてると思うのか」 などなど。 もちろん、訳語の関係もあるんでしょうけどね。 うん。 是非とも、もう一度観たい作品です。 

2009年6月2日火曜日

「スーパーコップ90」を観る

午後のロードショーで(最近こればっかりだな…)、「スーパーコップ90」を観る。

タイトルからして、B級どころかC級以下な雰囲気が満点ですが、こういうのを日常的に消費できるのも、午後のロードショーのいいトコで。
最近、午後のロードショーばっかりですが。


この作品は、結構面白かった。
原題は「Rainbow Drive」ってことで、これは通りの名前ですね。「マルホランド・ドライブ」とおんなじ。
舞台はLA。

なんていうか、エルロイみたいだな、と。
エルロイの短編に出てきそうな話です。年代が全然違うんだけど。


ちなみに、調べたら原作はロデリック・ソープという人で、この人はなんと、「ダイ・ハード」の原作を書いてる人らしい。


主人公は刑事(殺人課)で、恋人(旦那持ち)との情事の間に、妙な感じで殺人事件に巻き込まれて、という冒頭からして、もういかにもエルロイっぽいし。


警察組織の、腐敗しているトップ周辺(もちろん、そういう場合、組織全体も半分以上腐ってるワケですが)、裏家業に手を染めている地元の企業化(つまり、半分マフィア)。
で、この両者が繋がってて。

で。組織の末端の1人である主人公は、真相を探ろうと動き始めるんだけど、当然、組織のトップ周辺から圧力がかかる。
主人公の同僚たちは、“上からの圧力”を理由に、「俺だって気持ちは同じだけど、だけど…」という具合。
その中で、事情を知っていた、親友でもあった同僚が殺されてしまい、その復讐という、新しい動機が掲示されて…。

その同僚の奥さんに会いに行く、同僚の家の前のシーンは、結構クールでしたね。
ワンカットの画なんですけど。
家の前の道路の歩道から、玄関に向かって歩いていって、呼び鈴を鳴らして(ノックだったかな?)、寝巻き姿の奥さんが出てくるんだけど、それは、自分の旦那が帰ってきたと思って玄関に出てくるんですね。
だけど、そこに立ってるのは、自分の旦那じゃなくって、その同僚で。
で、何も言わないで、そこに同僚が悲しい顔をして立ってるだけで、奥さんは自分の旦那が死んでしまったことを悟るワケです。
ここは、良かった。

で、その同僚は、過去に“事情”を知ってしまった為に、ある筋から札束を受け取っているんですね。
で、その札束が、ガレージに丸まる手付かずで残してあって。
それは、その同僚の、カネを受け取っていいものかどうか、という「良心の呵責」のことなワケで。
そのカネをどうするか、という、奥さんと主人公の会話も、グッとくる感じで。
この奥さんは、この2シーンだけしか出てこないんですけど。でも、それだけで、しっかりと、主人公に“動機”を与えてるワケです。
この辺は、巧い。


で、その同僚と親しかった、黒人の、もう1人の同僚っていうが出てきて。
この、仲間との心の交わし方の描き方っていうのは、エルロイとは全然違いますね。

まぁ、そんなこんなで、身内の警察組織と地元の犯罪組織を相手に、主人公が孤独に戦う、と。

ラストも良くって、FBIが居た、というオチで、この、司法組織同士の対立がある、というのもエルロイっぽい。
冒頭の事件の、市警本部と分署の殺人課との縄張り争いもそうだし、FBIとかDEAなんかの捜査と、主人公が果たそうとする“私刑”との目的の対立があって。


あ、あと、この時代の作品で、「留守番電話」が凄い出て来るんだよねぇ。
多分、この時代のハイテクってことだと思うんだけど。
盗聴器とか。

今だと携帯とかメールとか、そんな感覚なんでしょう、きっと。


それから、主人公の刑事役の俳優さんは、スリムでシャープで、カッコいいです。
「CSI:マイアミ」のカルーソさんも出てます。若い。



というワケで、こういうB級作品は、大好きですな。

2009年5月30日土曜日

「英雄の条件」を観る

午後のロードショーで、「英雄の条件」を観る。
書き忘れてた感想です。


個人的にこの作品は大好きで、ま、何度も観てるんですが、今日は感想として、この作品の「構造」について。

法廷モノっていうのは、その“ジャンル”があるぐらいなんで、映画という表現との相性が良い、ということだと思うんですけど、それは、ストーリーテリングの手法としての「論理性」と、法廷での審理を進めるにあたっての実際の手順の「論理性」というのが、上手く合致しているから、だと思うんですね。

で、この作品では、そこに「軍隊」という要素が加えられて。
俺は、アメリカ軍のことしか知らないんですが(もちろん、こういうジャンルの映画や小説やノンフィクションから仕入れた知識ばかりなので、間接的な知識ではありますが)、「軍隊」というのは、社会の基本的な要素を、そのまま自給自足する組織なワケですね。警察も、軍隊の中に「自分たちの警察」を持ってますし、医師も、「自分たちの医師」を育てるシステムを持ってますし、法廷も、同じなワケです。
軍事法廷の場合、検事(原告)も軍人、弁護人の軍人、被告も軍人、裁判官も軍人。そして、陪審員も軍人。

で。
この作品では、「国家」「軍人としての個人」「1人の人間としての個人」という、幾つかの階層が「構造」としてあるんですね。正確には、「国務省」「軍」「軍人として」「1人の人間として」という階層。

国務省に所属している大統領補佐官が、「国家」の層を表していて、被告(サミュエル・L・ジャクソン)に罪を被せようとする。
同じく「国家」に属しているはずの、被告に命を救われ、本来なら被告に有利な証言をすべきである大使は、「1人の人間」がもつ卑しさにつけこまれ、「国家」に有利な立場に“逃亡”する。
「軍」の層には、ここが一番微妙なんだけど、被告の心情的な味方になる、被告の上官と、もうひとりとても大事な役回りを演じる、検事役の男、というのがいて。そして当然、被告。

で。
主人公は、「1人の人間」としての苦悩も抱えているんですね。父へのコンプレックス、自分のキャリアへのコンプレックス、息子との関係、それらを比喩的に示す、アルコール依存症というトピック。

で、そういうのが全部、入れ子状になってる。
この、入れ子状になってる「構造」の巧さと、その使い方、運び方。

例えば、ラスト前に、補佐官に、「個人的な報復」を告げにいくワケです。つまり、階層を「1人の人間」がブチ抜いている。
この前で、老父と(小生意気な)息子に最終陳述を褒められて、「1人の人間」としての“葛藤”を超えているのと加えて、観る側は、ある種のカタルシスを感じるワケですよね。ここで。
「構造」が、ここで閉じている。
閉じた上で、被告が無罪、という、ストーリー上の大命題の回収があり、ストーリー自体も閉じる。

それから、この作品は当然、主演の二大スターの作品として語られるワケですけど、もう1人とても重要な役どころがあって、それは、ガイ・ピアーズの検事なんですね。
ともかくこの人の表情と立ち姿っていうのが、画面に緊張感を与えているワケです。
で、この人の、法廷での微妙な反応とかを、カットアップで上手に見せていく。
隠蔽されたビデオテープを巡って、補佐官が、自分に責任を負わせようとしているかのような発言に、鋭く反応する、とか。
大御所2人と法廷で対峙するには、それなりの存在感がないといけないワケですけど、その役目をしっかりと果たしていて。
ま、いいですよね。


それから、ベトナム戦争から中東での騒乱、という、シチュエーションの立て方も、まぁ、いかにも「好戦的なアメリカ」というか、「仮想的を作らずにはいられないハリウッド」というのを、作品自体の中で(結果的に)批評的に示唆してもいて。
結末として、ベトナム人のかつての仇敵と、敬礼を交し合う、というシーンがあるんですね。これはホントに微妙なショットで、「構造」的に言えば「軍」ではなく「軍人」同士として、「1人の人間」同士として理解し合えた、ということになるんだけど、かといって、もっと大事な、そもそもの“中東での問題”が全然解決してない、ということにもなってて。
特に赤十字の医師の描き方っていうのが、ね。
あまり良くないですよね。

彼らの“動機”をちゃんと描かない、というのは、ま、この手の作品の常套手段ではあるんですけどね。
敵方の指導者の姿を描かない、とか、語らせない、というのは。

ま、それも含めての「構造」ですから。

えぇ。
いい作品だと思います。

2009年5月15日金曜日

「麦の穂をゆらす風」を観る

名手ケン・ローチの、カンヌでパルム・ドールを獲った名作「麦の穂をゆらす風」を観る。


まぁ、名作ですよね。
大英帝国の支配下にあったアイルランド、という題材は、アメリカ映画でも何度も語られていて、なんだか知らない間にずいぶん詳しくなったりしてて。
ま、そういう、「歴史を未来に伝えていく」みたいなことも、映画の力なんだなぁ、と。
ちょっとしみじみしちゃったりして。

ただ、ケン・ローチは“モノホン”ですからね。
エネルギーが違いますから。
画やストーリーは、アイルランドの“雄大な自然”とか、そういうのもあって、淡々と、とか、静かに、とか、そういう形容詞で語られたりするんでしょうけど、まぁ、たぎってるエネルギーが違いますよ。
ケン・ローチの魂がパンパンに込められた作品だと思います。ホントに。


ストーリーの骨格は、医師の道を捨てて「義勇軍」(当然、支配者のイギリス側にとってはテロリスト、ですね)に参加する主人公の目線で語られるんですが、その置き所が絶妙、というか。
最初は、「一緒には闘わない」と語らせておいて、駅のホームでの出来事が、彼の気持ちを変えるんですね。
で、わずかワンカットで、義勇軍に加わる、ということになって。

この時の、イギリス軍の兵士に殴打される運転手が、あとに“同志”として再登場するんですね。

この「元運転手」が、効いてるんです。
主人公の兄は、義勇軍の指導的な立場にいて、過去から現在まで、ずっと主人公に対して影響を与えてきた人物として描かれるんですが、やがて兄弟は対立する、というのがストーリーなワケです。

で、その元運転手は、主人公に対して「もう一人の兄」として現れるワケですね。


ストーリーの中で、少し唐突に、栄養失調で、というシークエンスが挿入されるんです。
ここは、物凄いさりげないシーンなんですけど、まさにここが作品のキモでもあって。

つまり、戦いの、というか、主人公が闘いに加わる動機というのは、「貧困」なワケですね。
これは、後から加わってくる動機でもあるんです。
主人公の動機ということとは別に、観る側(観客)に対して、アイルランド側の戦争の動機のひとつに「貧困」というモノがあるんだ、と。
この語り口の巧さには、よくよく考えれば考えるほど、凄みを感じる、というか。

つまりそこが、ストーリーの後半で語られる、「独立戦争」から「同胞同士の内戦」へシフトしていくキーなワケです。
「独立すればいい」のか、「貧困が解消されなければならない」のか。ここに対立がある。
そしてそこにこそ、この作品が語る悲劇性があって。

最初から語らない、と。
ここがねぇ。
かといって、前半部分に高揚感を持たせるとか、そういう演出でもなくって。
雇い主の圧力で、半ば仕方なく密告した幼馴染を“粛清”したり、とか。十分“苦い”ワケです。前半部分で描かれているモノも。

しかし、後半では、もっと苦い!


で、例えば、この前半部分でもひとつの映画になるワケですね。同じように後半部分でも、ひとつのストーリーとしてあり得る。
しかし、その両方は、この作品では同時に描かれなくてはならない。
限られた時間。
その為の、ストーリーを運んでいく手捌きの、スピード感、というか。決してセカセカした演出やカット割りではないんだけど、しかし、話の運び自体は結構なスピード感で。
かといって、語り切れてないシークエンスがあるかっていうと、そういう不十分感は全然なうくって。
要するに、無駄が無い、ということだ思うんですけど。

そういう巧さは、改めて感じました。

例えば、イギリス軍の士官が下士官に命令を下し、下士官が兵卒に「手を下す」よう命令し、そして次のカットでは、その兵卒が主人公たちの側に寝返って、と。
これをほんの数カットでサラッと見せられると、なんていうか、逆に強い説得力を感じたりして。


それから、同じ家が何度も“蹂躙”されるんですね。
ここは、ホントに唸りましたね。冒頭と、中盤、そして三度目は、「同胞たち」によって。
ここの「何度も匿ってやったのに」という老母の吐くセリフは、マジで強烈です。



「麦の穂をゆらす風」ですか…。
「麦」っていうのは、地に足を付けて生きている、アイルランドの生活者たちのことですよね。
で、「風」っていうのは、大英帝国のことではなく、「戦乱」そのもののこと。

「戦乱」が、地道に生きようとしている彼らを揺らしてしまう、と。
そこに悲劇がある、という。そういうタイトルだと思います。俺は。



うん。
まぁ、観る人によって色々受け取るモノが違ってくる作品でもあるかもしれませんね。
だからこそ名作なのかもしれないし。
人によって解釈が色々あるのは、ある意味では当然っちゃ当然なんで。

そういう意味でも、ぜひぜひ、たくさんの人に観て欲しい作品です。



ちなみに、実は俺は、ケン・ローチの作品はあんまり観た事がないんですが、観た作品の中に、「大地と自由」という、これまた物凄い傑作がありまして。
スペイン内戦を題材にした作品なんですが、これも個人的には大好きで、お薦めの作品です。

この「麦の穂をゆらす風」の、後半部分でもひとつの映画としてあり得る、というのは、この作品のことでもあります。興味がある方は、「大地と自由」もぜひどうぞ。