2011年9月21日水曜日

文学の力

新聞に、ノーベル文学賞受賞者の作家のインタビューが掲載されてまして。
印象的だったので、ここでご紹介。
作家というのは、マリオ・バルガルリョサさんという、ペルーの方で、御年75歳。
個人的には不勉強なもので名前もぜんぜん知らず、当然作品も読んだこともないんですが、文学が持つ力について、印象的な言葉を残しています。

東京大学での講演テーマは「文学への情熱ともうひとつの現実の創造」だった。
文学が描き出すもう一つの現実には私たちすべての願望が入っており、現実の世界に足りないものを教えてくれると語った。


「文学を楽しみのためだけのものと見なすのは誤りで、文学は私たちに現実の世界がうまく作られていないことを教えてくれる。
批判的な精神を養い、権力に従うだけではない人を作るから、いろいろな体制のもとで、支配したい人たちは文学に不信感を持つのです。」


「文学は偏見への最大の防御になる。
言葉のおかげで私たちは分かり合うことができ、過去の人たちがどう考え、どんな夢があったのかを知ることができる。
文学は人間に共通のものがあることを示し、時間や空間を超えた連帯感を生み、肌の色や言語、宗教などの壁を超越できる視点をもたらす。」


「私たちの世代は、作家は自分の時代に関わらねばならないとするサルトルの考えを深く心に刻んでいた。」


「良い文学は生きるための助けになる。障害を乗り越える力を与えてくれ、人生の一部になる。」




“文学”には、現実と切り結ぶだけの力があるのだ、と。
逆に言うと、そういう力のないものは、文学ではないのかもしれませんね。


ただの製品、プロダクト、というか。


ま、それはさておき。



「もうひとつの現実」を文学の機能性として提示する、と。

そして、そこから戻ってきて、「現実の世界」と切り結ぶ、と。そのフィードバックを実際に生み出すエネルギーこそが文学の“力”なんだ、と。


恐らく、そういうことなんだと思います。




なるほどなぁ、と。


そう思いました。

2011年8月14日日曜日

三池監督のインタビューより

今日の新聞に、三池崇監督のインタビューが載ってまして。
せっかくなんで、ここにアーカイブしておこうかな、と。


「十三人の刺客」は以前撮った「クローズzero」のようなケンカ表現を、今時希少な時代劇の枠組みでやると、どんなものが出来るかという発想でした。新しいものを求めたら、結果として古いものに行き着いた。
50年前なら「昔、悪い殿様がいました」という一言で、観客自身が物語を創り出していけた。でも、今の観客には、悪いヤツはどう逸脱しているか、どこが壊れているのかを丁寧に作っていかないと伝わらない。
例えば、稲垣吾郎さんが犬喰いするシーン。あれを入れることで、何かが過剰で、何かが欠落した人間の奇怪さと孤独を、あからさまに見せられた。
稲垣さん自身も、普段、いろんな制約がある人だから、演技することで殻を破る快感があったと思う。
今の僕らにとっては、武士たちの距離感や非情さはグッとくる要素もあるんです。「十三人の刺客」で、集められた侍たちが役所広司さんに「将軍の弟を討つ」と打ち明けられる。今の人間なら驚きますよ。「えっ」とか「そんなあ」とか。
ところが、武士はノーリアクション。そのまま受け止めるしかない。「使い捨てにいたす」と言われても、黙って平伏するだけ。



「一命」は若い夫婦の話ですが、「本音ぶっちゃけシーン」は入れませんでした。幸せも愛も、今のような概念としてはなかったはずですから。
映画なので、エンターテインメントの要素はゼロにはしないですけど、江戸時代に生きた人たちへのリスペクトは欠かないようにしたい。そいでないと、時代劇を作る意味がない。
江戸時代の人はみんな、何も起こらない日常を過ごしていたと思うんです。そして、ある日病にかかって簡単に死んでしまう。何も起こらないけど、ドラマチック、ひどく不自由で不便だけれど、人生とがっちり組み合っている楽しさがあった。


 「刺客」と「一命」ですね。


実は(恥ずかしながら)まだどちらの作品も観れてないんですよ。。。


面目ない。。。


特に「十三人の刺客」は、絶対に観たい作品だと思ってますんで。。。




えぇ。


観たいです。


観ます。必ず。






2011年1月28日金曜日

「トロン:レガシー」を観た

新宿バルト9で、噂の3D「トロン:レガシー」を観た。



いやぁ、3D。凄かったですねぇ。
なんつっても、大画面ですよ。3Dですよ。


実は、前作「トロン」は、見てないんです・・・。


だけど、CMで観せられたシーンに心を鷲掴みにされちゃって、公開を楽しみにしてたんですよねぇ。
あの、リングを(フリスビーみたいに)投げるショット。


ただ、フタを開けてみると、もちろん、そのリングでの戦闘シーンは熱かったんですが、バイクに乗って戦うシーンの方がメインだったみたいで・・・。

それはそれで、良かったんですが(3Dの特性を生かしている、という意味でもね)、リングのバトルももっと観たかったなぁ、なんて。


ま、いいんですけどね。



映像は、仮想現実の世界観というのが、ちょっと殺風景過ぎるっていうか、どうも単調になってしまって、もちろん作り手側の意図としては、それが狙いなんでしょうけど、そこがちょっとアレでした。
もっと派手でも良かったんじゃないかなぁ、なんて。



ま、前作との世界観の繋がりもあるんでしょうから、しょうがないっちゃしょうがないんですけど。



3Dに関しては、もうバッチリ。
リングとかバイク(の、光跡)という“飛び道具”も、バンバン効いてて、良かったです。




で。


ストーリーについてで、ちょっと面白かったトコがあって。


作品のストーリーは、ざっくり言ってしまうと、若い主人公が、「仮想現実世界」に旅立って消えてしまった父親を追って、自分も「仮想現実世界」に入っていく、という話なワケです。

そこで、父親と対面する、という。


ここで、いわゆる“定番”のハリウッド・スタイル(というか、アメリカのスタイル)だと、「父親と息子」の対立が描かれるハズなんです。

「父越え」は、アメリカ映画の、通奏低音の1つとして、色んな作家が、それこそゴリゴリの商業ベースのハリウッド大作でも、インディペンデント作品でも、繰り返し語られているストーリーの形であって。


ところが、この作品では、主人公自身は、父親と、感情的には色々あっても、話の流れの中で“共闘”することになるんですね。


これが、ちょっと面白かったです。



実は、その「仮想現実世界」というのは、父親が“創造主”となって作り上げた世界なワケですけど、そこに、“創造主”の代理人として、自分の“分身”を作るワケですね。

「仮想現実世界」ですから、当然、“創造主”がプログラムを書くワケですけど、「仮想現実世界」では、プログラムが擬人化(一応、そういうことにしておいて下さい)されて、“人格”を持った“身体”として、現れる、と。

で、その“代理人”が、暴走している、という話なワケです。
ストーリーでは。


“代理人”である“分身”が、暴走していて、つまり、“創造主”に反逆している。だから、父親は「仮想現実世界」の中に閉じ込められてしまっているんだ、と。
そういう話なワケですね。

息子は、そんな父親を、助けに来た、と。



で、この“分身”というのは、つまり、“創造主”の“息子”でもあるワケです。
“創造主”に作られたワケですから。



主人公からみたら、そいつは、実は「自分の弟」というか、そういう存在でもあって。



ストーリーの中で、“分身”は、「仮想現実世界」を「完璧な世界にするように」という使命を、プログラミングされているんです。
「そのために働きなさい」という命令を受けて、その世界に生まれた存在。

しかし、“創造主”は、生身の人間なワケで、つまり「完璧ではない」と。

従って、「完璧な世界」を造るためには、「生身の人間」である“創造主”自身を排除しなければいけない、と。

このパラドックスを、背負っているワケです。“分身”は。


つまり、敵役である“分身”が、「父越え」のストーリーを背負っているんですね。

この構図は、ちょっと面白かったです。


父親を奪い合う兄弟の物語。



主人公は、長い間父親が不在のまま育った、ということで、なんていうか、愛情不足じゃないけど、そういう、若干の「実存不安」みたいなのに陥っていて。
「父親を奪還する」というタスクを負うことで、それを克服する、という物語があるワケですけど、まぁ、そういう、親子愛の物語。


そして、パラドックスを背負わされてしまった“分身”の、「父を殺す」物語。





ストーリーの本編自体は、最後はなんか粗さが目立つ感じではあったんですが、でも、3D大作だし、こんな感じで良いんじゃないかな、なんて。



うん。




ま、映画館の大画面で観ないと意味がない、とまでは言いませんが、ぜひ3Dで、ね。



味わって欲しいな、と。






ちなみに、音楽はダフト・パンク。(本人たちも出演してます)

音楽は、最高でした。
ホントに。
世界観にバッチリはまってて。


その、音楽の感じも含めて、楽しんだなぁ、と。
そういう作品でした。















2011年1月4日火曜日

「ディープ・エンド」を観る

新春ってことで、毎年この時期はテレビで大量に映画が放送されてたんですが、今年はあんまりない、という状況の中で、いつもの「映画天国」で、「ディープ・エンド」という作品を観る。


まぁ、作品名も知らず、俳優陣もほぼ知らず(ERのコバッチュ先生が出演してます)、という状態で、あんまり期待しないで観たんですが、なんていうか、独特な味、というか、不思議なタッチとストーリー展開で、結構満足してしまった作品でした。


舞台は、カリフォルニア州の、タホ湖(「レイク・タホ」という単語は、ワリと色んな作品に出てきますね)の湖畔の小さな町、です。
というより、湖畔に建っている主人公一家が住む家が、主な舞台。

主人公は主婦で、旦那は海軍の軍人で、「船長をしている」みたいなセリフがあるので、まぁ、中流家庭なんですが、その中でも上の方、ですね。中の上。
で、旦那は一切登場せず、不在のまま、です。この“不在感”は非常に大事で、「一人で家庭を守る主婦」という、そういう感じ。
子どもが三人と、旦那の親父、というのがいて、5人で、田舎なんだけど、湖畔の大きくて綺麗な家に住んでる。

で、長男が思春期で、大学進学の問題もあってちょっと難しい時期で、というのに加えて、なんとゲイで、しかも“よからぬ男”と付き合っている、という。
この、「長男との関係に問題を抱えている」という“前フリ”の語り方が上手で、まぁ、強引っちゃ強引なんですが、話が始まる前に、その息子はすでに「交通事故を起こしたばかり」ということになっているんですね。
「交通事故」って、結構大きなトピックなワケで、普通なら、この手のシークエンスを中心に語りたくなるワケですが、この作品では、サスペンスに使うこともせず、かなり潔くバッサリ削っています。
「事故があった」ということだけが、母親と息子の間に、大きな刺として残っている、という状態から話が始まる。
個人的には、この語り口は面白いと思いました。


で。
長男の“恋人”という男が現れ、そいつが、何の因果か、死んでしまう。
勝手に。(事故死、ということです)

しかし、と。

母親は、そうは思わないワケですね。「息子が殺った」と。そういう勘違いをして、死体を隠したりとか、色々する。(このシークエンスで、一度沈めた死体に、もう一度自分が泳いで会いにいく、というシーンがあります。ここも面白かった。)

で、ここでようやく、“悪役”が登場して、「ゲイの息子」のことをネタにして、恐喝しにくる男が現れる、と。
後半は、この“悪役”と主人公との間の関係性や、二人の心情の揺れ動き、みたいなが描写のメインになるので、まぁ、作品自体のテーマもここにあるワケですね。

つまり、“死体”とか“犯人探し”とか“犯罪隠蔽がバレる”とかは、実はあんまり主題ではない、と。

「サスペンスの衣を借りた人間ドラマ」なんですね。
ここがキモ。
要するに、この“塩梅”が非常に良い、と。
そういう作品でした。


強請にくる男が、揺れるワケですね。
諸々事情があって、男がポツンと家の中に置いてきぼりにされてしまうんですが、その時に、主人公の女性が「護ってきた」家庭、というのに触れるワケです。
その価値を知る、というか。

ここの演出は、浅いと言ったら確かに浅いんですが、半面、ストーリーの流れを損なわない形で、役者の演技に頼りかかりながらも、短い時間で「分かる人には分かる」形で、上手に描写されている。

そこまでの、単に「主人公は三人の子どもを抱える母親である」ことの描写に過ぎなかったことが、ここで、少し意味合いが変わるワケですね。
「そういうのを知らないまま育った人間もいるんだ」と。

ここで始めて、そういう“別の角度”が掲示される、と。

と。


で、ここで「父親の不在」の意味も強まるんですが、その「強請にきたチンピラ」が、「不在の父親の代替」みたいな感じになる。
逆に言うと、チンピラが「父性に目覚める」というか。


まぁ、そういう感じに話が展開していくワケです。

この感じは、ストーリーに派手で分かりやすい起伏がある、ということではなくって、まぁ、かなり地味ではあるんですけど、いいな、と。
人間ドラマ、ですから。
ね。



ただ、「諸々事情があって」と書きましたが、そこのシークエンスに関しては、ちょっと不満です。
偶然に依りすぎ、ですね。
もっと「チンピラの正体を知らないまま話している最中に何かが起こって~」とか、そういう風になれば良かったのになぁ、なんて。
あんなに偶然いろんなことが母親の身に降りかかるか、と。

そこは、ね。
ちょっとイマイチ。

必然性を持たせることは、十分可能だったと思いますね。
作品の構造上、他のもっと大事な部分で“偶然”に依る必要があるワケで、そうである以上、他の部分では偶然性は排除していかないと、と。

まぁ、あくまで玉に瑕、という感じですけど。



演出面では、おそらく監督の好みか、あるいは他のメッセージがあるのかは分かりませんが、ひたすら“水”をイメージさせる演出が繰り返されます。
湖畔、という舞台を強調する為なのかはちょっと分からないんですが、湖面、湖底、プール、「水球」、水槽、釣りゲーム、蛇口の水滴(このショットはかなりクール!)、水面に反射して揺れる光、などなど。
もう徹底してますね。

おそらく、そこに対しての、後半の「赤い車」と「赤いコート」ってことだとは思うんですが。
感覚的には分かるんですが、強い意味合いまでは、ちょっと分かりませんでした。

まぁ、シンプルで綺麗な画だった、と。
それは間違いないっス。


というより、あの舞台だよなぁ。
ロケーションの勝利、という感じはあります。間違いなく。


あとは、シナリオの巧さ、と。



そういう作品でした。



あ、あと、ちょっと思ったのが、こういう恐喝とか、あとは詐欺なんかもそうなんでしょうけど、その手の「犯罪の現場」っていうのは、いわゆる「裏社会にいる人間」と「普通に暮らす人間」が交わる場なんだな、と。
別に、こう書くと極めて普通の、当たり前のことなんですが、なんか、改めてそんなことを思ってしまいました。
普段は別々の世界で暮らしている人間同士が交錯する場、としての、犯罪の場。

自分の創作のヒントになりそうだな、なんて。

まぁ、それはさておき。




小品ながらも雰囲気の良い、佳作だと思いました。

そういう感じで。
でわ。

2010年12月18日土曜日

「サラマンダー」を観る

ミッドナイトアートシアターで、「サラマンダー」を観る。


予備知識なし、期待なしで、ほぼ偶然に近い感じで観たんですが、ちょっと想像と違ってたのがいい意味で裏切られて、という作品。

舞台は、近未来、ですね。
いわゆる“ドラゴン”が地上を支配していて、という、まぁ、「マッドマックス」とかに実は近い世界観だったりするんですが、要するに、「剣と魔法の~」というファンタジー系のアレではない、と。

「サラマンダー」は、その“ドラゴン”を指したタイトルなワケですが、俺はてっきり、そっちのファンタジー系の作品かと思ってたら、どうやらそうじゃない、と。
近未来。


で。

その世界観の設定は面白いと思ったんですが、例えば、主人公が“剣”とか振るってくれたらよかったのにな、と。
実際は、ライフルとか、もっぱらそういう武器しか登場してこないんで。


「剣とライフル」なら、これは、「ファイナルファンタジー」じゃないですけど、もっともっと面白くなったのになぁ、と。


この「もっと面白くなったのに」っていうのが、実は作品全体に対する感想だったりして。

まず挙げられるのが、この、“剣”について。
せっかく主人公が馬とか乗ってるんだから、と。
デカい斧は武器として登場してくるんで、ここで“剣”が出てくれば、かなりカッコよくなって、観てる側のテンションももっと上がったんじゃないかなぁ、と。

もう一つが、ドラゴンの造形。
当然CGで作られたドラゴンが動くワケですけど、このドラゴンの“顔”がイマイチ。
どうもねー。

これって、“この手”の作品に結構ありがち、というか、西洋の人が思う“禍々しさ”ってこういう顔なんだな、ということを思わせる、というか。
爬虫類に似せて造形しないんですよねぇ。なぜか。
“人”に似せて作っちゃう。


もっとクールなドラゴンの造形にすれば良かったのになぁ、と。


いわゆる“ラスボス”ってのがいて、要するに、そいつを倒して終わり、なワケですけど、そのラスボスの造型がイマイチ、と。


あと、そのラスボスとの戦闘が、あまり盛り上がらない。
これは完全にシナリオ面での失敗なんだけど、「最初の作戦どおりに倒す」という流れで、ここも実は最初の「剣があれば!」というのにつながるんだけど、要するに、戦闘のシークエンスで盛り上がるワケですよ。
剣を構えれば。

そこがね!


惜しい!


ホントに惜しい。


舞台は、「近未来のロンドン」で、主人公はイギリス人。
で、アメリカ人の軍人、という脇役が出てきて、彼らは戦車とか戦闘ヘリとかを持ってる。
だけど、そういう現代兵器が、ドラゴン(サラマンダー)の口から吐く火焔に全部やられちゃって、というストーリーの流れなんですけど、そこまで“フリ”を溜めておきながら、最後も“火薬”に頼っちゃう、という、ね。


剣でしょ!


斧でもいいけど!



肉弾戦じゃないの!


そんな、斜に構えてカッコつけるような作品じゃないじゃん!



と、思いました。


登場人物たちのキャラ立ちとか、すごい上手で、最初は悪漢って感じのアメリカ人軍人の“謝り方”も凄いイイ感じで、そういうトコは上手なクセに、大事な「いかにテンションを挙げるか」ってトコで、どうも詰めが甘い、というか。
なんか、「新しいトコ狙いすぎ」?


そうじゃねーだろ、と。


ラストは、“刃物”でラスボスの首をぶった切って終わるんだよ。
そういうモンでしょうが、と。



なんか、CGもそうなんですが、セットとかすげーカネかかってるんですよねぇ。
最初の、人間たちが隠れ住んでいる砦のセットとか、もの凄い凝ってて雰囲気あったりして。
戦車もヘリも出てくるし。

あと、荒廃したロンドンの光景、とか、結構クールで。



ところがねー。


その、“肉体”の部分っていうか。
肉感的な部分の演出でイージーミス!
チョイスミス!



う~ん。


惜しい!



と、そういう作品でした。



あとねー。
最後の「フランス語」云々ってトコもな~。

アイスランド語とかロシア語にして欲しかったな。
せめてドイツ語。


フランスなんて、目と鼻の先だもんね。

そういうトコがね。
なんか、「カッコつけ過ぎ」って感じなんだよねー。


というワケで、非常に「惜しい!」作品でした。
でわ。


2010年12月14日火曜日

「クロッシング」を観た

新宿武蔵野館で、“隠れた”オールスターキャスト作品の、「クロッシング」を観た。

実は、この「クロッシング」は邦題で、原題は「ブルックリンズ・ファイネスト」。
この原題の言葉は、まぁ、慣用句というか、このまんまのタイトルのヒップホップのヒット曲があったりして、ざっくり意訳しちゃうと「ブルックリンで一番ヤバいヤツ」みたいな感じ。
で、この邦題は、やっぱ失敗ですよねぇ。
「交錯する」みたいな意味合いで「クロッシング」ってことだと思うんですけど、それならいっそ「クロス」とかにしておけば、「キリスト教」云々の部分も意味付けできなのにな、なんて。
だいたい、「交錯」しないんだよねぇ。
そこが「売り」じゃないのに、という、ね。


というワケで、いきなり原題にケチつけちゃいましたが、なんか、作品全体がなんかそんな感じ。
なんか「イマイチ」感がね、という。

いい作品なんだけど、と。なんか詰めが甘い感じ。


まず、リチャード・ギアがそれっぽく見えない。
仕事にくたびれた、そしてやる気がまったくない定年退職直前の制服警官を演じてるんですが、これがぜんぜんそう見えないんだよな〜。ぜんぜんくたびれてる感じに見えない。
「定年の退官を目前にした警官」というのは、この手のサスペンス/クライム・アクション系の作品には、かなり頻出するキャラクターなんですけど、まぁ、たとえば「セブン」のモーガン・フリーマンがそうなワケで。
(あちらは私服刑事で、こちらはパトロール警官、という違いはありますけど)

とりあえずそこの感じがねー。


オールスターでやるのはいいんだけど、と。
この違和感は、最後までわりと強かったりして。


イーサン・ホークは、信仰心(カトリック)からくる罪の意識と苦悩と自責に次第に追い込まれていく刑事を、かなり熱演してて、これはホントに「どうしようもない苦しみ」がビシビシ伝わってくる感じで。

話がそれますけど、そもそもキリスト教(特に、カトリック)は、「原罪」をまず人に背負わせておいて、という形で「信仰」に縛り付ける、みたいな構造で出来てるワケで(いや、あくまで俺の解釈では、ということです。念のため)、この「呵責の気持ち」の駆動力は、そうとういいです。

まぁ、イーサン・ホークが担うプロット部分は、全部いいです。ディテールも含めて。
特に子供たちとのやりとりは、セリフとか最高。

で。
もう一人の主人公が、名手、ドン・チードル。
この作品では、ちょっと珍しく、タフな役柄を演じてるんですが、その、「ちょっと珍しく」の部分がとても効果的な、素晴らしいキャスティングで、「タフなギャングを装って潜入捜査をしている刑事」の「表の顔」でも「裏の顔」でも、まぁ、完璧な感じ。
あいかわらず素晴らしいですね。
さすが、俺たちのチードル。裏切りません。

ちなみに、ドン・チードルの相方役が、ウェズリー・スナイプス。このキャスティングは、ちょっとわざとらしい感じがしますが(あんまり新鮮味がない、というか、ね)、まぁ、こちらも相変わらずの存在感でした。

それから、リチャード・ギア。
こちらは、くたびれた制服警官で、こちらのプロットは、「惰性」とか「人生と生活」(どちらも、ライフ)に膿み疲れた「惰性」を駆動力にストーリーがドライブしていく。

まぁ、シナリオとかホントに素晴らしいと思うんですよねぇ。
くたびれた制服警官の、犯罪現場(拉致誘拐・人身売買)への伏線の張り方とか、見事だと思うし。

ドン・チードルの、「裏の顔」の苦悩が徐々にギャングとしての「表の顔」に表出してくる感じとか、捜査機関同士の対立とか内部のいざこざとかも、限られた条件でも(というか、会話のせりふだけで)きちんと描けてたりして、ホントに巧いと思うし。

ただ、その、複数のラインで進んでいくそれぞれのストーリーを、そもそも複数のラインで語る必要があるのか、と。
そこが弱い。
もっと絡み合えばいいのになぁ、と。
直接的に登場人物同士が関係し合う、というだけじゃなくって、ストーリー構造の要素同士が反響し合う、という形でもいいと思うんですけど。(でも、そっちの方が難しいのか・・・)

とにかく、そこが、と。


三人の男が、善意と悪意と自己愛と、そして、大きな社会の仕組みに、だんだんと押し潰されていく。
そこのストーリーの運びは最高なんだけど、と。

三つのストーリーラインが互いに響き合っていない、というトコと、リチャード・ギアがなんだか浮いちゃっているトコ。この二つ。
ストーリーは面白いんだけどね。練ってあるし。
ただ、どうせ練るなら、あと、せっかくオールスターキャストで撮るなら、と。
スター同士のぶつかり合いだってみたいワケですから。

と、シナリオ面では、そんな感じ。



映像は、ストーリーの重い空気感に合った、しっかりとしたタッチ。
この、映像の空気感とストーリーの重さが一致している、というのは、この監督のひとつのウリなんだと思います。
個人的には、こういう雰囲気の画は大好きなので、ポイント高いです。

ちょっと、編集の間が独特で、たまに「え?」みたいな瞬間があるんですけど、まぁ、あまり大事なポイントではないっスね。
舞台となるブルックリンの雰囲気を殺さない画はホントに上手で、特に、黒塗りの高級車を撮るショットなんかは最高にクール。
あと、プロジェクト(団地)の空撮のショットも最高でした。



だからねー。
惜しむらくは、と。

だから、よくよく考えると、もうほぼ完璧な作品なワケですよねぇ。
だけど、と。
なんかちょっとだけ詰めが甘くて、そのちょっとしたポイントのせいでなんか印象がぼんやりしちゃう、という。

もったいない!


と。
なんか、個人的にもの凄い期待値が高かった分、消化不良を抱えながら映画館を出た、という作品でした。
でわ。



2010年8月22日日曜日

「型の反復」と「固有性」

雑誌に掲載されていた、大塚英志さんと宮台真司さんという、奇しくも「同学年」の2人の対談記事が強烈に刺激的だったので、ここにアーカイブしておきます。

「型の反復」と、各個人が持つ「固有性」とが、互いに相反するものではなく、必然的に互いに導き合って「作品」という形として浮上してくる、という話です。

大塚
ストーリーをつくるための文法を(だいたい5、6歳くらいの)子供たちに教えたらどうなるのか。
子供相手に「物語の文法」という観念論を教えるわけにもいかないし、物語の構造しかない絵本をつくるのが手っとり早いだろうと考えました。
でも、これはもう少し年齢の上の人向きかなという気もして、この絵本を親子のワークショップだけでなく、高校生、大学生など対象を変えていろいろな所でやってみたんですが、すると、ストーリーづくりのリハビリみたいなものとは違う意味があるって思えてきた。

(宮台さんにみてもらった)授業は、生徒がそれぞれ描いたこの絵本を発表するという授業でした。
そこで見ていただいたように、ちょっと不思議なことが起きます。
同じ物語の構造に落とし込んでいるはずなのに、描いた人の心の内側みたいなものがうっすらと見える。案外、固有のお話、それぞれの物語が出てくる。
しかも一方では、いくつかのパターンが出てくる。物語論的に正しいパターンがいくつも自然に出てくる。
型に入れたのに一つ一つは固有性があって、でも全体として見ると型というか、パターンがある。それが非常に興味深い。それが面白くて、ひたすら作例を取りながらあちこちで授業をやっています。


宮台
「<世界>を体験しているつもりで、実は<世界体験>の型の反復に過ぎない、その型とは・・・」ということの方が重要な気づきです。それに気づくだけで日常生活の送り方が変わります。
かけがえのない人生。自分のかけがえのない実存。それはそれで構わない。
でもそうした感じ方自体が一つの型であり反復です。そのことを知っておくとルーティン化した固着から逃れやすくなります。
反復だから貧しいわけじゃない。実り豊かな体験こそ反復から成り立ちます。
我々の<世界体験>は、豊かであるか否かに関係なく、反復であることは間違いありません。

僕は映画批評の仕事もしますが、やはり型の反復に注目してきました。
視覚体験(映像)の型と意味論(物語)の型。双方の型を奇蹟的にシンクロさせた作品を愛でてきました。作品のオリジナリティは僕にとっても多くの観客にとっても実はどうでもいい。
僕の考えでは、型の反復だからいけないのではなく、型の反復だから良い。
僕は人形劇が好きですが、型の反復の中で毎回違ったものが見えてしまうのはなぜかに注目してきました。それは必ずしも表現者によってコントロールできない。
無数の反復を重ねた挙げ句、突如奇蹟的な力が人形に降りたりします。


大塚
たとえば、美大のいわゆるアート系の学生などに、この絵本をやらせると、奇をてらおうとするわけですよ。
たとえば、絵本の最後の目的地から逆算して頭で考えて変に技法を凝らしたものを作ろうとする。そうすると、アーキタイプがまったく現れないんです。
目的地って実はトラップです。その意味では極めて凡庸なものになるケースが多いですね。
言葉としては変かもしれませんが自分なりのアーキタイプを作る。それらをちゃんとやったら宮崎駿になれるわけじゃないですか。
宮崎駿の物語って、構造として美しくきちんとしているとともに、一個一個のアーキタイプが彼の卓越した力によってキャラクターや表現になっているわけです。


宮台
型の反復の中でなぜ面白いものが生じるのかは興味深いですね。
「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」というインチキ西部劇がそうです。
ストーリーはめちゃくちゃですが、構造は明確です。近代的観点では、物語が破綻していて、メッセージも皆目不明。でも面白いのです。
構造は明確ですが、ストーリーの係りと結びを追うと、係りの大半が結ばれない。
脚本教室だったら大減点ですが、誰も気にかけない。
それどころか観終わって「<世界>は確かにそうなっている」と寓話の土産を持ち帰る。
構造の反復があれば、一貫したストーリーや分かりやすいメッセージがなくても、人はそこに<世界>を見出す。カオスの中に<世界>を見る。
ストーリーもメッセージも不明瞭なのにすごく面白く、しかも面白い理由を説明できない。でも本当に面白いってそういうことじゃないかな。


大塚
つまり表面的な伏線とかネタの整合性みたいなことの意味ですよね。それと「物語の構造」の整合性とか破綻って違う水準ですよね。それがなかなか区別されにくい。
あえてストーリーと物語という言葉を分けて使えば、表面的なストーリーのロジックみたいなことの後ろ側にもうひとつ別の物語の論理性がある
そういった構造の水準中で伝わっていく、あるいはかたちづくられていくものがある。
人の思考がそういう構造の中を流れていくことで人間の内的なあり方、人間らしさ、世界体験、世界認識みたいなものがそれこそ構造化していく。
今、そういう部分がすごく脆弱化しているのではないか。
だから逆に物語論的な構造が隠されている、一見物語に見えないものにとても弱い。

世界自体が物語として動いていくときに、それに対抗する訓練ができていなければ批評的であることさえできない。自分の内側が構造化されていないから、外側の見えない構造に流されちゃう。だから論理的なつもりでも表面的な論理の整合性しか捉えられなくなってしまう。構造という論理を管理できない。


宮台
ビルドゥングス・ロマン(成長物語)の重要な側面は、観る側の枠組みが90分間の間に文字通り成長するところにあるます。
成長物語は、近代小説のように時間的フォーカス(物語)として語られてはならず、時間的フォーカスから見ると破綻した形で、構造的フォーカスに即して語られるべきだと感じます。
そうした語り口があって初めて、観る側が日常の時間的フォーカスにこだわる地点から離脱して、「そんなことはどうでもいいんだ」と感じるまでに至る成長を体験できます。
構造的フォーカスに即して語られた成長物語は、それ自体、読者や観客に離陸点と着陸点の落差をもたらす通過儀礼になります。そうした成長物語はオリジナリティどころか元型の反復に満ちています。
構造的フォーカスに即して語られた成長物語は、型の反復とストーリー的整合性とがズレることを通じて、「重要だと思っていたことが本当は重要ではなかったのだ」と気づかせるからです。


大塚
オリジナリティがあることや固有であることと、何かの反復としてあることは二律背反でも矛盾でもなんでもなくて、同時に成立する。
そのことが分かったとき、いろいろと新しい自分が見えてくるのになって僕は思います。
すべては反復なのだという言い方の中にペシミスティックに収斂してしまってもそれは知的な怠惰でしかないし、かといってアンチ「形式」、反「制度」みたいな考え方だけで固有性を求めていくことのあがきに関しては、もう一定の結論みたいなものが出てしまっているわけですよね。
形式を反復することと固有であることの二重性をきちんと生きられるかどうか。

形式の中に「私」を当てはめて、構造の中で物語り、そして別の誰かと同じ「元型」を引き出していながら、しかしできあがったものは違う。そこが一番やっていて面白いし、たぶん大事なところだと思います。
同じことをやっていながら違うみたいな不思議さですよね。
そこに何かオリジナリティがなければいけないとか「私」がなければいけないみたいな呪縛に対して、割とすっきりとした答えは出せるのかな、とやっていって思います。



「物語の構造」をキーワードにした、非常に刺激的な話だと思います。
特に、宮台さんの「成長物語」はこうあるべきだ、という言葉。

単純に“作劇のヒント”にしてはいけない、「甘く危険な言葉」ではありますが、知っておかなければいけない認識でもあるでしょうし。


という感じで。
でわ。