2014年11月14日金曜日

「誰よりも狙われた男」を観た

二条シネマのレイトショーで、ジョン・ル・カレ原作、フィリップ・シーモア・ホフマン主演の「誰よりも狙われた男」を観た。


いやぁ、良かったです。
時間的に、かなり無理して行ったんですが(帰りも終電でギリギリ)、劇場に観に行った甲斐がありました。

舞台は、ドイツの港湾都市ハンブルグ。
単純に“港湾”というだけでなく、いわゆる“結節点”の一つ、ということですよね。ヨーロッパの。
それから、やっぱり「首都ではない」という部分でも、主人公の「左遷された先」というニュアンスがあるワケで、そういう意味でも、この「ハンブルグが舞台になっている」というのは、ストーリー上でも重要なファクターになってまして。


で。


まず、冒頭15分くらいで、舞台が港湾都市であること、主人公(ホフマン)が“ある組織”を率いていること、その組織が「警察ではないこと」が明示されます。
“港湾都市”、というより、なんていうか、「金属と直線だけで形作られた」街、インダストリアルな感じが、特に強く打ち出されて、その中を、ガリガリに痩せた髭面の若者、という、いかにもな“難民”が、彷徨い歩く、という。
そして、彼が、防犯カメラによって補足される、というイントロダクション。


ル・カレ作品の(個人的には)“前作”にあたる「裏切りのサーカス」は、舞台が“少し前の”冷戦時代だったワケで、その時代背景とか舞台となるロンドンとか、いわゆる“サーカス”の内部の感じとか、やっぱり若干説明が必要だったと思うんですけど、今作は、「9.11」以後の世界、つまり“現代”、イスラム過激派「ジハーディスト」が“監視対象”、というストーリーで、まぁ、説明要りませんからね。

ドイツ人もチェチェン人も、みんな英語を話すのは、ちょっとアレですけど、まぁ、しょうがないです。




ストーリーのキーとなっている要素が幾つかあって、その一つが、セリフにもあるんですけど、「魚を捕まえて、それを餌にバラクーダを釣り上げて、バラクーダを餌に、鮫を釣る」という部分。
小者を補足して、そこから順々に大物・大きな目的に迫っていく、という、主人公が率いる情報機関の活動方針みたいなことなんですけど。

これは、いきなり“クライマックス”の話をしてしまうと、“追う側”の主人公たちにも同じロジックが当てはまってしまっていて、つまり、主人公たちの小さな組織(ハンブルグという地方都市で活動している小さなグループ)が、より大きな”組織”、つまり、「同じビルの“上の”フロア」にいる組織、あるいは「ベルリンの内務省」、あるいは、「(超大国の)CIA」といった組織に、「喰われてしまう」という。

これは、要するにクライマックスのカタストロフィーを支えるロジックなワケですけど、かなりインパクトあります。
「そういうことだったのか!」という感じで。



もう一つは、「親子関係」。
というより、「父子関係」かな。


ひょっとすると、原作の小説だと、この部分がもう少し掘り下げられて描写されているのかもしれませんが、映画の今作では、サラッと触れられているだけって感じで。
ただ、ストーリー的には、大事なポイントになっていると思います。

まず、“ターゲット”である、チェチェン人の青年。
そもそも彼の“動機”が、「父親に対する云々」なワケですけど、彼に関わる、銀行家、というキャラクターがいまして、彼は自分の父親の銀行を継いだ、という立場にあって。
“父親同士”の約束、というのが、そもそものストーリーの起こりになっているんですね。
なので、銀行家自身は、自分の父親の行為が遺した“契約”に、巻き込まれる形で、関わることになる。

この銀行家は、ウィレム・デフォーが演じてるんですが、このキャラクターは、相当いいです。
“怪演”じゃないデフォー、というのは、もちろん良いに決まってるんですけど、なんていうか、立ち姿がもう「困惑している」ワケですね。
困った顔の、痩身のデフォーの姿、というのが、ホフマンとのよい対比にもなってて。


もう一人、若くて美人の人権派の女性弁護士。
裕福な家庭に育ち、父親は判事で、という、まぁ、いわゆる“エリート”なワケですけど、人権派の弁護士として活動している、と。
移動は、自転車。(デフォーは、高級スポーツカーに乗ってます。)

デフォーの銀行家も、弁護士の彼女も、ホフマンの「実際に戦っているんだ」という迫力に圧倒されて、協力を強要される、という展開になるワケですけど。

そのホフマンは、家族の描写はなく、それどころか、私生活の描写も殆どありません。(終盤になって、唯一、“趣味”みたいなことが描写されますが。)
その孤独感が、かえって存在感を引き立たせる、ということなワケですけど、彼は逆に、「父親」として振る舞うワケです。
擬似的な、父親。
自分の“情報源”を護ろう、という、ある種の美学を持ってるんですけど、その美学は、「家族を護る父親」に、とても似ている。

チェチェン人が「父の行為」への“反抗”から、“遺産”を寄付する、ということになるんですけど、その彼の意思を、情報機関としては利用しつつ、身柄の保障をどうにか果たそうとする。

そして、それが成し得ない、というカタストロフィー。



というかですねぇ。
観る側としては、もう、カタストロフィーを期待してしまっているワケですよ。
もう、ホフマンの表情を見ているだけで、どこかで「裏切られるんだろうな」という心情に、こっちがなってきてしまう。
もちろん、演出が、そういう方向に引っ張っていく、というのもあるんですけど。
その、期待しているカタストロフィーが起きることによるカタルシス、という、よく分からない心理状態になる、というか。


そして、圧巻なのが、ラストショット。
主人公が、自分の車に乗り込んで、“少しの距離”を走って、また車から降りる、というシークエンスなんですけど、カメラのピントが、「車の外」じゃないんですね。
車内。
ハンドルとかダッシュボードとか、そういう所に焦点されている。
この画は、かなり強いです。



ただ、惜しむらくは、この強さのあるラストショットがあるだけに、ということだと思うんですけど、実の父を“失う”ことになった、アラブ系の青年の“心情”が、置き去りになっている、というところ。

例えば、この青年が、父親を“奪還”するために、銃を握る、という“オチ”ならば、「暴力の連鎖」というか、「テロ防止の名目で、テロリストを育ててしまっている」という、ある種普遍的なテーゼを掲示して終わることができたと思うんですけど。

実際は、主人公の憤りと絶望、というラストショットなんで、まぁ、全然それで良いとは思うんですが。





あと、これは予算的な都合かもしれないんですが、例えば、ハンブルグが舞台、ということなんですけど、そこで安易に港湾施設とか、空港だとかで撮ったりはしないワケです。
ロケの話ですけど。
そういうところで派手さを出す、ということではなく、あくまで俳優同士のやり取りで、ストーリーを語っていく、という。
スパイものですけど、アクションもないし、基本的にはダイアローグと画の力強さで構築されている作品で、それは成功している、という意味でも、好感持てますよねぇ。
(もちろん、「007」シリーズみたいな、派手なのも、好きですけど。)
変に「ベイルート」の回想シーンを入れない、とか、そういうところもポイント高いです。


弁護士を拉致するシークエンスの、主人公が公園の並木通りに立っているショットなんかは、ホントにクールで、グッときました。



うん。


力強い、いい作品でした。
お薦め。













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