2008年11月2日日曜日

「物語の構造」論

アスキー新書から出てる、大塚英志さんの「ストーリーメーカー」という本をご紹介。




世の中に存在している「物語」には、ある「構造」というのがあり、その「構造」を分析し、理解しよう、と。まず。


「物語の構造」というのは、実はかなり以前から興味はあって。(まぁ、当然っちゃ当然なんですけど)


で、この本では、その「構造」の説明と、同時に、「構造」を利用して、実際に「アイデアの欠片」から、ストーリーを構築してみよう、ということが説かれています。
「構造」というのは、ある「定型」のことを指すんですが、その「定型」を、構成する要素ごとに分解して「機能」を説明し、さらに、その「定型」に沿って、新しい“オリジナル”のストーリーを作ってみよう、と。(正確には、「ストーリー」ではなく、「プロット」というモノを作ることになるんですが)


「構造に従って書く」ことに対して、自分の固有性を制限され作り手として個性が奪われると感じる方もいるかもしれませんが、このような「肉付け」や「選択」の中にこそ、より明確な作家性が具体的に発現するとぼくは考えます。

「物語の構造」から物語を創作する、という行為は、自分の固有性の発露として「表現」を試みたい人々には、生理的に受け入れがたいものだと思います。
ぼくは個人的には作り手の自意識がただ投げ出されただけの「自己表現」に、殆ど意味を見出せません。その種のアートや文学にありがちな「自意識」は、「物語の構造」によってバイアスをかけられ、鋳型にはめ込まれ、ようやく人様にお見せ出来るものになるというのが、本書の立場であるのは言うまでもありません。



ぼくが申し上げたいことは良くも悪くも「構造」は容器に過ぎない、ということです。
そこに補填される個別の物語によって、時に「構造」は歪み、変形し異質のものに変わりさえします。そもそも村上春樹がそうであったように、「構造」で結ばれるところのパーツは借用品のジャンクであっても何の問題もなく、「構造」も約束事としてあらかじめそこにあるものです。
けれどもそれが個別の作り手によって個別に物語られる時、そこに固有の物語はそのつど成立します。



と、そういうことですね。

本格的に(つまり、アカデミックに)物語論や「物語の構造」論、創作論を学んでいない俺としては、機会があれば、こういう“理論”に触れてみたいと思っていたんです。前々から。
まぁ、本屋のその手の書棚に行けば、そういう内容の本は、それこそ沢山あるんですが、パラパラめくって、その度に、持った手から棚に戻して、と。度胸やら根性やら決心やら、あとは普通にお金がなかったりして(時間も)。

それともちろん、俺自身が、「自分の固有性の発露」をしたいとただ考えていた、ということも、あります。
「構造を持つモノ」として「物語」を学ぶ事、つまり「構造から創作する」方法を学ぶ事は、自分自身の「固有性」が損なわれる結果に繋がるんじゃないか、と。
やっぱり俺も、そう思っていたんですよ。


もちろん、今でもその考えは、俺の根本にあって、別にそれを捨て去る、ということでもないんですけどね。


でも、まぁ、いい機会だし、ということで。


いや、とても面白い本でした。ホントに勉強になります。


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