2008年3月5日水曜日

邦画がピンチなんだってさ

新聞に、07年の邦画を振り返ってという記事が載っていたので。

まずは、映画ジャーナリストという肩書きの斉藤守彦さんという方のコメント。

映画に知的好奇心を向けず、気持ちよさだけを求める。動物的な快感原則にもとづく観客の保守化は止まらない。

“動物的な快感原則”なんていう言葉は、東浩紀さんの「動物化するポストモダン」からの参照でしょうけど。まぁ、鋭い指摘ではあるんじゃないのかな、と。



で、話は、“ケータイ小説”の映画化として、そしてなにより、特大ヒット作として、注目された「恋空」について。記事では、まず、この原作のストーリー自体を「女子高生の妄想」と言い切っています。その上で・・・。

この女子高生の妄想を担う新垣結衣は、まるで空っぽな内実を、他者=彼氏だけでなく観客にも埋めてほしいと、うつろに演じたように見えた。
万一、「観客参加型」を狙ったとすれば、試みは新しい。

ちょっと補足すると、「主人公の、心の中の空洞(空っぽな内実)を満たすという、ある種の“干渉”を、作中の登場人物(彼氏)だけにでなく、物語を外側から観ている観客にも求めている、ように見える」と。(余計分かりづらくなってます?)
“干渉”とは、例えば、“愛の告白”とか“逃避行”だとか、そういう、「物語の要素」ですね。
で、仮にそれが意図的に行われているとするならば、これはポストモダン的なアレなんですが、それはそれで新しい映画の形、つまり、物語を語る新しい手法の一つではあるのだ、と。


もう一つ、ケータイ小説が映像化されたこの作品について、同じく映画ジャーナリストの大高宏雄さんという方は、「人生を全肯定する、リアルもバーチャルも超えた変な光景」としています。
で。

この、人生を全肯定する、リアルもバーチャルも超えた変な光景が映画として「成立」したことに、「今まで自分は何をやってきたのか。これから何をやっていいのか分からなくなった」というプロデューサーも。
映画人の自意識や物語の結構の崩壊。邦画の再立ち上げは容易でなさそうだ。

ということでした。


まぁ、現状認識はしておかなくては、ということです。
一番いけないのは、ただ無自覚に、ただ“作りたいから”という“動物的な欲求”だけで作ることでしょう。きっと。
なんつってね。生意気言ってスイマセン。


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